歴史は眠らない?

 今日で「歴史は眠らない:英語・愛憎の二百年」は終了。第4回「"使える英語"を求めて」を見たが、やはり着地点を見失ったような気分になった。案内役である鳥飼氏の主張はテキストを読めば明快なのだが、番組ではどうも言い足りない感じになってしまっていてお気の毒だ。
 今日の放送中に見られた「パタン・プラクティス」の「実演」はまったくお粗末。あれでは英語ができるようにはならないだろう。だが、それ以前に教授法や指導法の取り上げ方がまったく体系化されていないのだから、英語教育の歴史を扱う番組としてはどうにもならないように思われる。
 経済界の要望が日本の学校における英語教育に大きく影響したことを明らかにした点はよい。また、いわゆる「ゆとり教育」の影響で中学校における英語の授業時数が3時間に減らされたことを取り上げた点もよい。しかし、経済界の主張を全面肯定するかのような取り上げ方には疑問を抱かざるを得ないし、板ばさみにあっていたのを文部省(文部科学省)とするだけではあまりに食い足りない。
 その上で、小学校で始まる「外国語活動」を英語を中心としたものとし、一方で「日本人らしい英語を」と言われても、いったい何のことやら。試行錯誤の歴史を振り返った上で新しい方法があるはずと言われても、まったく何のことやら。どれもこれも、いわゆる「NHKコード」の影響だろうか。番組に不満の向きにはテキストを一読されることを強くお勧めする。
 それにしても、パタン・プラクティスを中心としたいわゆる「ミシガン・メソッド」の弱点を1950年代初頭には看破し、そこに「場面」の研究を付加することによって教室での使用にたえうるものにしようとした教員集団が存在したというのはものすごいことだ(番組で取り上げたわけではないけれど)。その意味で、当時の東大附属の取り組みはきちんと再評価されてよい。誰もやらないだろうから、私が何か書かなければならないのだろうと思う。