手書き文字

 今日は「日本外国語教育改善協議会」の第39回大会に参加。これまでの数回、同じ状況が続いているのだが、発言することのないまま時が過ぎていった。実際、すでに議論は尽くしたという部分もあり、将来において想定されるようなことがらについても、おおよそ先回りして一定の結論を得ているのだから、それはそれでこの会の「成果」とも言えるのである。
 今回、特筆すべきは「英語以外の外国語」の教育に関わってこられた方々に特別参加枠でお越しいただいたことだろう。抽象論で語られがちな分野だが、経験に裏打ちされたお話をうかがうことができたいへん有益であった。
 一方では、文字指導のことなどで、ごく基本的な合意を踏まえない議論が繰り返されることもあり、私たちの力のまだ及ばぬこともまた実感させられた。

 中学校の授業の一環で、生徒たちが街に出て「ピースメッセージ」を集めてきた。外国の人が書いてくれたものには「筆記体」で書かれたものが含まれており、生徒たちは読むことができない。それを見て、中学校段階で「筆記体」を教えることの必要を感じた。

 およそこんな発言があってずいぶん当惑した。ここにはいくつもの問題が含まれているように思うが、特に2点を明らかにしておきたい。
 まず「筆記体」ということばがひとり歩きしていることの危険を感じる。発言者は「筆記体」ということばを、日本の中学校で伝統的に「筆記体」として教えられてきたいわゆる cursive と同義のものとして使っているようだったが、外国の人が書いてくれたという文字が cursive であることなどどうしたら想像できるだろう。私たちは、例のあのひどい手書き文字も「筆記体」と定義するわけだから、それを「筆記体」と言ってもかまわないのだが、《「筆記体」= cursive 》とするのは誤りだと言わねばならない。加えて、cursive が読み書きできたからといって、例のあのひどい手書き文字が読めるという保証はまったくない。基礎・基本を重視し生徒たちの負担を軽減しようという立場の人が、その意味で「無駄」ともなりかねない文字の指導に時間を割こうとはどういうことなのか、大いに疑問に感じた。
 次に、日頃からいわゆる「筆記体」を教えたいと思っていたのであれば、そのときこそがチャンスだったのではないかと指摘したい。いわゆる cursive を教えたところでその「ピースメッセージ」を読むことはできなかっただろうということは置いておいて、生徒たちに手書き文字の世界の広さや奥深さを実感させるには絶好の機会であったことは間違いない。あれほど実践報告の好きな人々の中にいながらどうしてそれを活用してレポートしてくれないのか、これも疑問に感じたところだ。この際、文字指導こそを目標とし、外国の人に書いてもらった文字を読み解くという活動を積極的に授業に位置づける方がよいのではないかとも感じた。
 私たちは、少し偏ったことばを使えば「試され済み」の会ではある。しかし、もはや「常識」としてしまっていることであったとしても、根本的なところから議論を繰り返してみることも必要なのかも知れない。そこには新しい発見があり、より深い納得がある。自戒とともに、そんなことを思った。