しんしくめさげ・いつつゆり

 父の命日を覚えていてくださる方が、メールをくださったり、お花を送ってくださったり、お墓参りに来てくださったりする。なんともありがたいことだ。
 その命日というのは11月3日で、所属寺では毎年きまって報恩講の日中法要が営まれる。したがって、僕は父の命日には必ずお寺にいることになる。これもまたありがたいことだ。
 所属寺の報恩講のお勤めは、お逮夜は「真四句目下・五淘」だから、「あぁあぁ、うぅうぅ」言っているうちにちょっとしたトランス状態におちいる。トランス状態などということばを使うと危ない宗教と思われてしまうかも知れないが、そうではない。偈文やお念仏やご和讃をたくさん揺さぶって、長い時間をかけて、丁寧に教えのことばを聴くのである。その節の美しさと力強さには心動かされる人も多いと思う。
 父の死をきっかけにお寺にご縁をいただいたが、どうしてもっと近づいてみようと思ったのかと振り返ってみれば、実のところお勤めの存在は大きかった。つまりは、お勤めをかっこいいと思ったのである。そして、自分もできるようになりたいと思ったのだ。晨朝と日中の間の時間、最近お寺に見えるようになった方と話しているうちに、そのことに気付かされた。
 お衣姿にクラクラしてお坊さんになった人もいるというから、まあいいか。入口はさまざま。人の数だけ入口はあるのである。