若葉マーク

 所属寺で「彼岸会・永代経法要」。昨年は電車も動いておらず人出の少ないお彼岸だったことを思い出す。私はと言えば、京都で開催される予定だった理事会と研究例会を取り止めたため、お彼岸中、毎日お寺に顔を出すことができるようになったのだった。震災の影響で家を空けられないからと、動きの取れる親戚の方に「維持会費」を託してくださるご門徒も多く、お寺の存在の意味をあらためて思わされたことだった。
 今日は法要の司会進行役を仰せ付かった。お勤めの時間も法話の時間も満堂で余間にも入っていただくほどだったのだが、お勤めの声はそれほど大きくならず、真宗宗歌や恩徳讃も同様だった。よい意味でお勤めや法話に慣れていらっしゃらない方が多いのも彼岸会の特徴なのだと気付きハッとした。
 誰にも初めてお寺に足を運ぶ日があり、初めて御尊前・御影前に身を置くときがある。その初めてがなければ二回目はなく、その初めてがなければ永遠に「出遇う」こともないのかも知れないのである。お寺に通うことに慣れてしまったことで自分の感覚を鈍らせるようなことがあってはならない。聞法において問われることは、常に教えの前に初心者であろうとする生き方なのかも知れない。