ほうとうを食べながら法統というものを思う

 日頃お世話になっている若いお坊さんが住職になられ、報恩講を機に継職奉告法要が勤められることになった。それに出させてもらおうと、所属寺の同朋と山梨県は笛吹市まで。
 300年の風雪に耐えてきた本堂に身を置くと、この寺を守り支えてきた名もない人々のことが思われて、胸に熱いものがこみ上げてくる。座布団が敷き詰められたさまも、あたたかみを感じさせた。
 正信偈は草四句目下、念仏は三淘、和讃は「三朝浄土の大師等」次第三首でお勤め。襲職法要に出させてもらうのは初めてとあって、ずいぶん気合いを入れて声を出していたら、地元の門徒さんをびっくりさせてしまったようだ。
 所属寺の住職が記念の法話。「お寺は何のためにあるのか」とは、実に大きなテーマである。およそ五座分の内容を50分でという離れ技だった。
 お寺が聞法の道場となるため、そして、そうあり続けるため、門徒である私たちに与えられた課題の大きいことを思う。
 今日は石和温泉に泊まり、明日は東京・三田のお寺の報恩講。またまた、寺三昧の日々である。