DIVA

 心地よい疲労のうちに一日を始める。今日は宝塚を見に行こう、そう決めていた。東京宝塚劇場では、雪組の『仮面の男』と『ROYAL STRAIGHT FLUSH!!』が上演中なのだ。
 自分への褒美という言い方はあまり好まないが、そんな気分もないではない。とにかく出かけてみると、12時半過ぎでも当日券は十分に残っており、2階の4列目上手側に席を取ることができた。
 ミュージカル『仮面の男』(脚本・演出:児玉明子)は、大劇場にかかったときに悪評しか聞かなかったのでずいぶん気になっていたのだが、実際に見てみると結構すっきりとした展開で肩透かしを喰らった気分。プログラムを読むと、脚本・演出家のことばに「手直しをさせて頂きました」とあった。なるほど、そういうことか。
 しかし、その「手直し」を受けなかったと思われるのが「第13場:一大ページェント“朕は国家なり”」の場面だ。ここに登場する「大女優」という役は、裾の大きくふくらんだドレス姿のまま宙づりにされる。空中で大女優が自分の手でスカートの裾を広げると、なんと中はミラーボール。つまり、大女優は腰まで巨大なミラーボールの中に入った状態で、ミラーボールごと宙づりにされているのだ。大女優は自分の手でそのミラーボールを回して、物語を展開する歌を華やかに歌い上げる。さらに、舞台上の進行に合わせて金色の紙吹雪を撒くのだ、2度も。舞台上にスポットが当たっている間も宙づりにされたままの大女優を目の当たりにして、怒りとも絶望ともつかぬ感情の沸き上がってくることを感じた。
 その「大女優」こそ、この公演を最後に退団するかおりさんこと晴華みどりさんである。宝塚は、この人を娘1にしなかったという時点で良心の存在を疑われていたわけだが、ことここに及んで、この人をとうとう「人間ミラーボール」にしてしまったのだ。
 晴華みどりさんは、タカラヅカ・スカイ・ステージで退団にあたって企画された「Memories of 晴華みどり」という番組のインタビューで、「タカラジェンヌとして…」という問いに対して次のように語っている。

 タカラジェンヌに必要なものって、いろいろあると思うんです。もちろん、男役さんに必要なもの、娘役さんに必要なもの、男役スターさんに必要なもの、娘役のスターに必要なもの、いろいろあると思うんですけれども、タカラジェンヌに必要なものって、宝塚を愛する心だけだと思うんです。
 ここはやっぱり宝塚だから、オペラ歌手の集団でもなければ、バレリーナの集団でもないし、お芝居のスペシャリストの集団でもないと思うんです。でも、宝塚を愛する心があれば、歌も踊りもお芝居も上手になりたいと思えるし、宝塚らしくありたいって思えるし、そうすればやっぱり、娘役であることに誇りを持ったり、男役さんだったら女らしい格好はできなかったり、宝塚を愛する心ってそういうところにつながるんじゃないかなって思うんですよね。
 そうすればやっぱり、宝塚らしくないことができないというか、私はそう思うんです。私は、すごく宝塚らしさとか、清く正しく美しくの精神っていうものをすごく大切にしたい、娘役らしさを大切にしたい、娘役らしいって言われるタカラジェンヌでありたいっていうポリシーをずっと持って来たので。その、何て言うんでしょう、別にいいんです。ジーンズをはいて街を歩いてもいいし、いいと思うんです。いいんですけれども、タカラジェンヌっていうことを忘れないで欲しいと思います。多くのこれから宝塚を目指す人たちにも、今タカラジェンヌとしてがんばっている下級生たちにも。
 そうすればきっと宝塚は、華やかな夢と華やかな世界と、このまま永遠に続いてくれるんじゃないかなって。宝塚を愛する心だけは、本当に持っていて欲しいなって思います。そうじゃなきゃ、宝塚じゃないなって思います。

 この人こそがタカラジェンヌであり、この人こそが宝塚ではなかったのか。娘1になれるはずの人だったのに、奇妙な人事に振り回され、最後は宙づりにされて。何が悲しいと言って、自分でスカートの裾を広げて、自分でミラーボールを回して、紙吹雪まで撒いて、そんな役があるものか。
 ただ、ひとつ言えることは、この役をストーリーテラーとしてのディーヴァととらえ直すならば、この人以外に演じられる人はいなかったということだ。100年の歴史の中で初めての珍役は、この人が演じることで完結した。この先100年にわたって宝塚が存続するとしても、同じ設定の役は二度とないだろうし、あってはならない。その意味で晴華みどりというひとりのタカラジェンヌは歴史になったのだと思いたい。そう思わなければ、やっていられない。
 さて、観劇の記録を続けよう。ドリームステージ『ROYAL STRAIGHT FLUSH!!』(作・演出:齋藤吉正)は、テーマとしてのアメリカ礼賛については置いておくとして、華やかなショーであった。いささか詰め込みすぎの感はあるけれども、目まぐるしく移り変わる舞台を楽しむことができたとも言える。
 ショーになって、もはやかおりさんしか見えなくなっていたのは、芝居での扱いのひどさが引っかかってしまったからではない。実際、その存在感は圧倒的で、出番の多さも餞別としての「当て書き」ではないかと思えた。
 エトワールでは不覚の落涙。いや、不覚というのは嘘か。たぶん泣くだろうと思っていたら、本当に涙が出てきた。歴史になったタカラジェンヌの退団公演を見届けたという意味において、私もまた歴史の一部になりたいと願う。


 夜は、大塚でK君の誕生会。西洋流とかで、祝われる本人がすべてを支払ってくれるとの話だったから、お礼とお詫びのおしるしにシュワシュワしたものを1本持参したが、1本ではまるで足りなかった。申し訳ない。薦められてさっそく Amazon で注文した映画『パリ20区、僕たちのクラス』のDVDは明日届く。