街の研究家

 昨夜、北千住の呑み屋街であやしい家に入った。美術の研究家を自認するご主人が「チーママ」と呼ばれる老齢の女性と2人で迎えてくれて、古書やら美術展のチラシやら、いろいろなものを立て続けに見せては、ご主人のフィールドのさまざまのことを語ってくれる。
 ご主人が相当に学のある人で、ある意味でピュアな人だということは十分にわかったけれど、それはあくまでも「ある意味で」ということに過ぎない。自分は誰それを知っているとか、この店には誰それが来るとか、それは悪趣味と紙一重。
 家のことを言うならば、懐古趣味は結構だけれど、往時には往時なりの洗練というものがあったはずだし、猥雑であるからといって不潔である必要はないと思う。かりそめにも飲食業として客の財布を開けさせるのであれば。
 研究家を自称するというのは、ある種のブラフなんだな。私だってときどきやってみせることだ。ただ、研究家というのは「狭い」ことこそが売り物なのであって、自分が何でもかんでも知っていると言い張ったり思い込んだりしてはならないものだ。
 珍しいものだと言いながら見せてくれた70年代の歌集。表紙で微笑む女性を「この間自殺してしまった人」と教えてくれたけれど、清水由貴子と伊藤咲子を取り違えていることは明らかだった。とりあえずそのことを指摘してからは、もう口をきかなかった。
 ある意味でおもしろい商売だとは思ったけれど、それとても「ある意味で」ということに過ぎない。思っていることが顔に出てしまうもので連れには厳しく指摘されたが、いやいや、ある意味ではおもしろい経験になったと思っている。こちらも「ある意味で」だが。