人と会う。人と語る。

 夕刻、昨日に引き続きNm君と新宿駅西口で。実は、昨日渡すべきものをうっかり持ち帰ってしまい、忙しい中、時間を取ってもらったのだ。ついでに、私のラジオコレクションの継承者になってもらうべく、3台を差し上げることにした。というか、受け取ってもらうことにした。というか、押しつけた。
 ソニーの「ポケットたんぱ」ことICR-N1は、NSBクリスタルが6個内蔵されたポケットラジオで、1986年に販売が開始されたというロングセラー。ラジオNIKKEI(かつての日本短波放送、ラジオたんぱ)しか聴けないという、ある意味ものすごく贅沢なラジオである。
 アイワのCR-D60はやはりポケットラジオで、1992年にAMラジオ(中波)のステレオ放送が始まるのに先立ち、その前年に発売されたAMステレオ受信機の第1号。AMのほか、FMとテレビの音声が聞け、チューニングはもちろんPLLシンセサイザという超豪華版である。世界時計の機能がついているのは、携帯電話の普及していなかった時代、情報を持ち歩く者のトレンドを意識したものであろう。
 アイワのFR-ST5はホームラジオ。木製の筐体に大きなスピーカ。スピーカはもちろん布で覆われている。AMステレオ対応の珍品で、本体のデザインを共通化した増設スピーカを接続すれば本当にステレオになる。チューニングはアナログだが、優しくて奥行きと深みのある音は最近のラジオには望むことのできないものと言えるだろうか。
 ラジオの好きな人というあたりで何となく嗜好と志向の似ている人かとは思っていたが、親子ほども歳が離れているというのにあまりに共通の話題があるものだから驚いた。明日からは落ち着いて勉強してください。


 夜、人形町へ。私が教員生活のスタートを切った学校で直接お世話になったM先生がこの3月で定年を迎えられたとのことで、卒業生の有志が先生を囲む会を開くというのに招待いただいた。お世話くださったKさんは高尾の大学に非常勤で出講しておられ、廊下で声をかけていただいてもう2年になる。Kさんの選んだ店は日本橋は小網町の小さな焼鳥屋さん。貸し切りにしていただき、ゆったりとした時間を過ごすことができた。
 私が最初に勤めた学校は赤穂浪士のお墓があることで有名な泉岳寺の隣にある男子校だった。豪快というか無頼というか、最近はお目にかかることのないタイプの先生方が多く、あちらからこちらから、毎日のように飲みに誘われては大いに鍛えられた。
 20年ぶりにお目にかかるM先生は、少しふっくらされたけれど、おかわりなくお元気な様子で安心した。先生は、教員の待遇改善のために腕を振るう方であり、同時に生徒と授業を大切にする尊敬すべき教師であった。教えていただいたことはいくつもあるが、そのうちの2つは、いつも心を離れない。ひとつは「どんなに酔って帰っても、教科書の明日の範囲を読んでから寝ることにしてるんだよ」ということ。もうひとつは「担任手当は自分のポケットに入れちゃいけないと思ってね。生徒に返すって言うのかな。生徒のために使おうと思ってね」ということだった。
 今日、20年ぶりに集まった「生徒たち」は12人。仕事を持ち、家族を持つ、まっとうに生きる人々である。母校の最近の進学実績を聞いて目を丸くし「すみません。僕らの時代は暗黒の時代でした」などと言っていたけれど、この人たちがどれほど愛おしく思えることか。無茶をし、悪ふざけをしながらも、学ぶべきときに学び、悩むべきときに悩んだ人たち。そういう人たちの持つ賢さと力強さを目の当たりにする思いだった。
 生徒たちは、M先生からそれぞれの誕生日にいただいた本のことをしっかりと覚えていた。それは、太宰であり、三島であり、谷崎であり、ヘッセであり、池波であったりする。N先生がポケットに入れなかった担任手当は、こうして意味を持ち力となっていたことを20年の歳月を超えてあらためて諒解した。さらに驚いたのは、文化祭でクラスをまとめた生徒に声をかけ、日本橋の立ち食いの寿司屋に連れていったという話。ごちそうになったという生徒が初めてみんなに明かし、かつての担任の豪快さを共有していた。
 M先生のことばで忘れられないものがもうひとつある。それは「勤めに出るつもりで都営地下鉄で泉岳寺まで来たんだけど、急に海が見たくなって、そのまま京浜急行で三浦海岸まで行っちゃったんだよね」という若い日の思い出。今日、お目にかかるにあたり、プレゼントとして革製の文庫本のカバーを選んだけれど、無頼に生き、本を愛した先生の、この先の旅のお伴にしていただければありがたいことと願っている。


 夜も更けて池袋へ。広島から出張中のU先生に時間を取っていただいた。会務のことで摺り合わせをしておきたいという思いもあったし、今回の件で抜群のバランス感覚と決断力を示されたU先生に感謝の意を伝えたいという思いもあった。とは言っても、結局はグダグダと飲んでは夜に溶けていっただけなのだが。
 池袋は、かつて私たちの会の懇親会の場所であった。健啖家が多く、さんざん飲み食いした後でも二次会は蕎麦屋だった。もりをつまみに熱燗などという渋い酔客となった私たちの中にあって、D先生が注文されるのは決まってカレー南蛮だったな。
 そう言えば、私が初めて会の例会に参加させていただいたとき、懇親会で「若い人は大先生の隣に座りなさい」と言われ席をともにさせていただいたのが、先日還浄された高梨健吉先生とお話しさせていただいた初めての機会だった。緊張する私に、先生はお銚子の持ち方と注ぎ方とを教えてくださり、紫煙をくゆらせながら「お若いの、パイプはやらないの」とおっしゃった。高梨先生に酒の注ぎ方とパイプを教えていただいたなどと言ったら、他の先生方は顔をしかめられるかも。けれど、私にとってはかけがえのない思い出である。
 そんなことを語っていたら、それを「会の月報に」とのこと。さすがU先生、私たちの信頼する編集長である。
 U先生からは Asahi Weekly の3月28日号(No. 1911)をいただく。開いてみると、U先生の隣にはM先生。M先生の文章が掲載されていることは知っていたが、同じ号におふたりの名前を見るとは。うれしく誇らしい瞬間だった。