繰り読みの伝統

 和讃の「和」は和文とか和語の「和」であって「日本語」ということである。和讃の「讃」は讃歌の「讃」であって「讃える歌」ということだ。つまり、和讃とは「日本語で作られた讃える歌」のことである。何を讃えるのかといえば、仏とか如来とか教典とか教義ということになるのかしら。
 親鸞聖人は『浄土和讃』・『高僧和讃』・『正像末和讃』のいわゆる「三帖和讃」として350首余り、その他のものを含めると全部で500首を超えるご和讃を残されたそうだ。私たちの伝統的なお勤めのスタイルには、これらのご和讃に節を付け、お念仏と合わせて一日に(一度に)6首ずつ読んでいくというものがある。これを毎日実際になさっているという方がいらっしゃるというのは、まったくすごいことだと思う。私自身はと言えば、難しくってできないというのが本当のところなのだけれど。
 ただ、私にもこういうお勤めをしてみたいという思いはある。その思いを生み出したものは、ご和讃そのものへの興味でもあるし、繰り読みという行為への関心でもある。私は特に、聖人をはじめとする多くの先人の書かれたものを「声に出して読む」ということの持つ「身体性」に大きな意義と魅力を感じる。実際、今年の修正会でも、ハンドアウトに刷られた聖人のことばをみんなで声を揃えて読んだりもした。
 繰り読み。それは、私たちの美しい伝統。で、私は現代版の繰り読みにつながるものを具体化しつつある。詳細はいずれ。