ぐずぐずと考える土曜日

 例えば、英語で書かれたものを読んで、その内容を一語一語日本語に置き換えるようにして理解し、自分が理解した内容を元のものとは違うことばを選んで英語で表現したとき、これは英語を英語で理解したことにはならないのだろう。けれど、表面的には日本語の介在しない理解がなされているように見えるはずではある。
 一方、英語を英語のままに理解することができたとして、そのうえで理解した内容を日本語に置き換えて表現したならば、見た目には日本語を使って英語を理解したように映るはずだ。
 なんとも抽象的なもの言いではあるけれど、人間の内面でなされることというのは実に複雑なのものだと思う。
 で、さらに言うならば、そもそも「理解する」ということはどういうことなのかと考えずにはいられないのである。訳読を批判しようとする人が「訳せたとしても理解できているとは限らない」などと言うことは多いけれど、ならば、英問英答ができたら理解できていると言えるのか。英語を用いたT-F問題に正解できたら理解できていると言えるのか。別の英語で表現できたら理解できていると言えるのか。
 生きながら、誤解を重ねて苦しい思いをしたり、やっと理解できたと言ってうれし涙を流したりする一方で、授業中に扱う英語を理解することなどは簡単なことだと思っている。ことばを学ぶということに貼り付けられたその種の浅薄さを、少しばかり嫌悪したくもなる。


 夕食は今日も鍋。だし5カップに白味噌120グラムとコチュジャン30グラムを合わせ一煮立ちさせたところに、魚・肉・油揚げ・野菜などの適当な具材を放り込み、グツグツ言って来たところに、食べやすく切ったキムチとセリをさらに入れて食す。オリジナルではなく土井善晴氏のレシピだが、これは美味しかった。