英語を英語で理解するということ

 舌足らずは承知で、昨日から引っ掛かっていることを書き始めてみる。
 新しい高等学校用学習指導要領案には、何か所も「言語活動を英語で行う」という文言があるのだが、その「言語活動」として、例えば「説明や物語などを読んで、情報や考えなどを理解したり、概要や要点をとらえたりする」などといったことが挙げられている。もちろん、これまでの学習指導要領にも似たような活動は例示されていたが、今度の案の違うところは、その活動を「英語で行う」としているところなのだ。これは、活動を英語で指示するという意味ではなく、活動そのものを「英語で行う」ということなのだろう。つまりは、授業が日本語で運営されたとしても、学習者は「説明や物語などを読んで、情報や考えなどを理解したり、概要や要点をとらえたりする」ということを内的に英語で行うということなのだ。
 英語を英語で理解するということは、いったいどういうことなのだろう。それはどのように実現されるのだろう。この案を打ち出した人たちは、そういったことについてどのように考えているのだろう。「理解」という学習者の内的活動を「英語で」行わせるというならば、そのしくみや方法について明示しなければ無責任だと思うのは私だけなのだろうか。
 今回の案では「英語に関する各科目については(中略)授業は英語で行うことを基本とする」という部分ばかりに注目が集まっているようだが、「言語活動を英語で行う」という決めごとの方がずっとやっかいである。特に「理解」という学習者の内的な活動にまで踏み込んだ点については、真剣に考えなければならないと思う。
 今日も携帯電話からのエントリーなので、腱鞘炎になる前に止めておこう。