呼名の美学

 成蹊高校の卒業式。この先、よほどのことがない限り高等学校の卒業式に参列することはないのだなと思いながら、3年間担当させてもらった学年を見送った。
 卒業証書授与の際に生徒が名前を呼ばれるのを聞きながら、ある学校で高3の担任をしたとき、クラス全員の名前を名簿を見ずに呼んだことを思い出した。あれは、生徒たちと約束したのだったか。せがまれた紋付きを着て出られないかわりに、そうすることにしたのだったか。
 自分が卒業生を送り出す1年前、以前に勤めていた学校の卒業式に来賓として招かれて列席したとき、かつての仲間が堂々と同じことをしたあと、副校長室に呼ばれ「先生のお気持ちはよくわかりますし、素晴らしいこととも思いますが、立場上ご注意申し上げざるを得ません」という持って回った注意を受けていたことを覚えていたから、冷や冷やしながらの数分間だった。
 卒業証書を渡す前に名前を呼び、生徒に返事をするなり立ち上がるなりすることを求めることは、卒業生台帳の記載事項を確認する教務上の大切な手続きのひとつである。だから、台帳を見ずに名前を呼んではならないのである。ところが、幸運なことに(?)、僕の勤めていた学校では卒業生台帳そのものがどこからも下りてこない。卒業生台帳がないわけではないのだろうが、それを確認するという意識が誰にもないのである。かくして、僕は注意を受けるどこかろか、校長からも同僚からも保護者の方からもお褒めにあずかる幸運を得た。
 せっかく呼ぶのだからと、ひとりひとりの名前について、アクセントやらイントネーションやらピッチやら、ずいぶん研究して練習したものだ。下降調、上昇調、あるいは平板。「苗字は長く名前は短く」がよいか、あるいはその反対がよいか。ひとりひとりの名前が映えるようにと考えるのは、実に楽しかった。苗字と名前がくっつかないようにとの意識からか、間にポーズを入れて呼ぶ人がいるが、すべての名前について同じ長さのポーズを入れるのは止めた方がいい。苗字と名前の切れ目をわかりやすく伝えたいのならば、ピッチを変えたり声の調子を変えたりする方法もあるのである。「呼名主任」なんてものを任じてもらえるなら、よろこんで引き受けるのだが。