計画

 いつの間にか「輪番停電」から名前が変わっていた「計画停電」という名の無計画に振り回される。まず、今朝6時台に目を覚ましてみたら、寝る前には問題なく動くと言っていたJRをはじめ、多くの鉄道がまともに動かないという。
 昨夜遅くなって国土交通省が「通勤・通学など外出を控えてほしい」と呼びかけたとのニュースがあり、その意図をはかりかねていたのだが、こういうところへつながったわけか。電車を動かさせなければ電気は使わない。誰にでもわかる理屈ではあるが、本当にそれでよいのか。
 まあ、ここで文句を言ってもしかたない。住んでいる地域の停電が始まる前にまずは確定申告だけは済ませてしまおうと急ぐ。無駄な電気の使用は避け、灯火管制下のような思いで書類を作っていると、今度は計画停電をしないとかするとか情報が二転三転し、それを追いかけるうちにちょっともやもや。
 どうにか書類を整え、これを郵便局で投函するついでに買い物に出る。この先の会務に必要な物があったのだ。文房具を買いに行ったホームセンターは大混雑で、懐中電灯や電池は品切れ。帰りに立ち寄ったコンビニにはカップラーメンは1つもなかった。
 そろそろ会務を急ごうと思うのだが、夕刻から2時間程度の計画停電がある見込みとの報道に、派手に書類を広げるわけにもいかぬと思いわずかのことだけを済ませる。そして、通電が再開されたときのショックを避けるためパソコンは片付け、テレビの電源も落としてそのときを待った。
 ところが、結局は肩透かし。あとになって東電のサイトで資料を手に入れてみたら、私の住んでいる町は、道一本のところで今日の計画から外れていた。実施対象の自治体ではあったのだが、町の単位で外されていたのである。この計画を手に入れるのは「自己責任」なのか。
 結局のところ、テレビは役に立っていない。津波で家が流される映像は何度も見た。原子炉の構造も覚えた。どれもこれも、したり顔で「必要なこと」のように伝えてはいるけれど、実のところ、本当に「必要なこと」はまるで伝えていないのだ。
 パソコンでの作業中、KeyHoleTV に IBC岩手放送のラジオ放送がアップされているのを知った。少しだけ聞いてみたところ、菊池幸見さんと土村萌さんの声が尋ね人の連絡や給水場所の情報を伝えていた。現地の人々にとっては、これが本当に「必要なこと」なのだろう。
 そして、今日の私たちにとっては計画停電の詳細こそが本当に「必要なこと」だったのである。いわゆる「キー局」が垂れ流している放送は、いったい誰の役に立っているのか。テレビ局は、地デジ化を進めるときにはうたい文句の一つにしていたマルチチャンネルを活用し、サブチャンネルで地域に密着した情報を提供せよ。歌や音楽や笑いといった娯楽を提供せよ。そして、本当に電力が不足するというなら、輪番で放送を休止せよ。
 さらに、東電と政府はスポンサー枠をすべて買い取ってでも、自分たちの責任において契約世帯に対し計画停電の詳細を伝えよ。それが、今度の災害を「ひとごと」とせず、もともと原子力発電なんて大反対だったとか悪いけど電気はただでもらってるわけじゃないよなどと口に出すこともせず、自主的に節電することであなたたちの計画に協力しようとしている私たちに対する責任の取り方の一つではないのか。
 停電の対象外と知って一度消したテレビをつけると、ちょうど計画停電が実施されている夜の町をヘリコプターでレポートしていた。その地名を聞いて愕然とした。被災してようやく灯りの戻った茨城県だというのだ。ふつう、こういうことをするのを「人でなし」というのだと聞いたことがある。
 夜、どさくさに紛れ、同席のうえ不出馬と出馬の会見をしてみせた2人の「知事」あり。その一方で、ある立候補予定者は今日の事務所開きを延期したという。もはや政治家以前に人間としてのありようの問題か。その会見で、ひとりの男は今度の災害を「天罰」と言い放ったという。文明批評としてのことばであれば受け止めるにやぶさかでないが、その時と場を狙った下劣な感性に辟易する。