時空を超えるもの

 所属寺で「成人の日法話会」。長崎より、詩人で児童文学作家の藤川幸之助さんにお越しいただいた。あらかじめいただいていたメッセージには次のようにある。

 母がアルツハイマー型認知症と診断されて22年がたちます。
 認知症を患ってからの母の心の不安、忘却への恐怖、病気による混乱とそれを支えた家族の心の葛藤を通して、認知症という病気や介護についてお話しします。
 認知症の母を介護する過程で、母を支えていたと思ってきた私が、実は母に精神的に支えられ、育てられていたとこの頃深く感じるのです。その介護の日々を、詩の朗読を交えてお話しします。

 誰にも認められることがなく、親にさえ嫌われていると思っていた若い日の自分。年を経て、認知症でことばを失った母を介護する日々を過ごすうちに、そんなときにも自分を信じてくれている母がいたことを知る。母の日記に見つけたことばは、今の自分の生きる勇気となった。母のことばは過去に綴られたものではあるが、同時に現在の自分への未来からの呼びかけである。この時空を超える不思議のはたらきを思う。
 法話会に続く新年懇親会では、ぶしつけな進行役である私にマイクを回された何人もの方が、介護の体験にとどまらず、実にさまざまの切り口でご自分のことをお話しくださった。どの人にも一人ひとりの人生の内実があり背景がある。世間の一般的なつきあいではおそらく黙ったり隠したりしてしまうであろう内容を、堂々とつまびらかにすることのできる世界。そんな世界を共有し合えるという一点において、お寺の持つ今日的意義があり、はたらきがあり、力がある。
 そして、今日も私は人生の目標のことを考えるのである。英語はできた方がよいだろうし、きちんとした英語が使えた方がよい。堂々と専門家の名乗りをあげることも必要なことがあるだろう。けれど、そういう流れとは別のところにも、自分の立つべき位置があり目標を定めるべき世界があるのではないか。
 高等学校の頃、虚数の不思議についてゆくことができず、ぶつくさと文句を言っている私に「複素平面」の存在を示して教えたくれた級友がいた*1。私はそれでも納得がゆかず、自分の狭い了見で数学との縁をプツリと切ってしまったのだけれど、あのとき「それはおもしろい」と素直に言うことができていたらと今でも思うのだ。数直線の中にしか自分の位置を見出すことのできなかったあの頃の私。ピラミッドの頂点に位置することを絶対の価値と信じて疑わぬ人を見ると、そんな私を見るようで悲しいのである。

*1:今だから「複素平面」などと知ったようなことを言うけれど、その時の私は、数直線に垂直に交わる直線を引いて説明してくれる級友の手際のよさに、ただただ感心していた。彼はきっと、数学について自ら進んで深い勉強をしていたのだろうと思う。