せざるを得ない?

 昨晩は日記を書いたあと『火の魚』というテレビドラマを見た。室生犀星の同名の小説(1960年、中央公論社刊)をもとにNHK広島放送局が昨年制作したもので、第64回文化庁芸術祭大賞を受賞したとのこと。見ましたかというメールをもらい、どんなドラマだったのかとネットで検索をかけNHKのオンデマンドで見られないかなどと調べるうちに、とあるサイトで試聴できることがわかった。著作権の問題がクリアされているのかは不明だが、昨晩の私には実にありがたいことだったものでパソコンの小さな画面を食い入るように見たのだった。
 いいドラマだった。最も印象的だったのは、多くの人が同じように思われたことと思うが、若い女性編集者が金魚の魚拓をとらされたあと、作家に案内された食堂で鯛の刺身を食べる場面。いのちの現実というか、生きることの不条理というか、人間の持つ罪業性というか、そういうものが象徴的に描かれているように感じた。これは、映画『おくりびと』の、ふぐの白子や鶏の肉を食べる場面とも重なって見えた。
 その編集者を演じる女優は尾野真千子さん。ずいぶん力のある人だと思ったが、特に切り絵の人形劇を演じる場面でそのことを強く感じた。人形劇が上演されたのは、安芸門徒の地にふさわしくお西のお寺。お寺の、人々の集う場としての側面も見逃せない。瀬戸内の風景は美しく、その小さな島に暮らす人々の姿もまた美しい。作家の書斎の窓の向こうに、海が小さく切り取られて見えるさまが心に残った。
 ただ一つ気になったのは、癌という病の描き方だった。癌を定型的に不治の病としてしまうのは、原作が刊行された当時の一般的な意識の限界だったのではないか。その原作を今日的に改作し50年前の物語とはしなかったことが功を奏しているのだから、この点をも克服する必要があったのではないかと思うのである。ただ、そのことはドラマに傷をつけるものではないとも思う。むしろ、病を詳細に説明しないことが物語の物語性をいっそう高めたようにも感じられたからである。


 さて、今日は「日本外国語教育改善協議会」の第38回大会へ。思えば、ここ2回ばかりこの会に出かけても発言しないことが続いている。習熟度別授業の是非について意見の割れていた頃は実施反対の立場から必死で食い下がったけれど、この問題についてはこの会としてもう決着をつけてしまった。また、英語以外の外国語に対する意識を高めるためにもずいぶんものを言った記憶があるが、この点についても会としての一定の共通認識が確認できている。その意味では、会の議論にことばを差し挟む必要がなくなってしまったというのが本当のところだ。
 ただ、この先、小学校で「外国語活動」の名のもとに英語が指導されるようになると、中学校の入試へに英語が導入されるようになったり、中学校に入学する段階での英語力の格差が生まれ、それを理由に習熟度別の授業が絶対視されるようになったりすることもじゅうぶんに予想される。それに備えて気を引き締めておかなければ。
 やっかいなのは「世間の意識」であって、中学の入試に英語を課すのは当たり前であるとか、中一から習熟度別の授業があるからよい学校であるといった声というのは必ず聞かれるようになるのである。現に、都内の私学の一部では中学の入試に英語を導入「せざるを得ない」という立場を取り始めているという。
 私たちの仕事はまだまだ残されている。ここからどうやって力を大きくしていくか、そこが問題だ。