願われて、ある

 午後、所属寺で聞法会。先日の「成人の日法話会」でいただいた法話を読み返す。キーワード満載で書き記すことをためらうが、今日あわせて読んだ「蓮如上人御一代記聞書」第1条の意訳を、先にも用いた『みんなで語りあおう』から写しておこう。

24 念仏申さるべし
 明応二年一月一日、勧修寺村の道徳という人が、蓮如上人をおたずねして、年頭のごあいさつを申しあげたところ、上人は即座に仰せられた――
 「道徳、おめでとう。あなたはいくつになりましたか。念仏申しなさい。
 「苦しさのどん底から、『助かりたい』と思って称えるひともあるし、ただもう悲鳴のように称えるひともある。
 「また、『雑念を取り去ろう、取り去ろう』として、雑念に悩まされながら称えるひともある。
 「あるいは、慙愧の思いで称えるひともあるし、感謝の気持ちになって念仏するひともある。
 「しかし、これだけでは、念仏が、ある時は、頼りになるが、また、ある時には、わけが分らず、お先きまっくらになるのです。
 「なぜなら、まだ、ほんとうに『ただ南無阿弥陀仏と称えよ』という如来様のお心が聞かれず、その仰せのままに実行されていないからです。
 「得手勝手に、自分の計らいで、安心の模造品を造っているのです。それでは、おたがいに自分だけは分っているつもりでも、結局、争いだけに終ってしまいます。
 「この模造品の安心や信心というものがこわれた時に、ほんとうに計らいのない、無我の世界が開けてくるのです。
 「如来様の仰せに順って、仰せをただ実行して行く以外に、私たちには、模造品の信心がこわれる道は、ないのです。
 「自分の計らいで助かるならば、如来様が念仏を成就なさるご苦労はないのです。自分の計らいではどうしても助からない者がいるから、如来様が念仏を成就され、『念仏を称えよ』と仰せられているのです。
 「どんなことがあっても、自分をごまかさず、如来様のこの仰せに順って、念仏を称えて行きなさい。
 「念仏を称え称えて行くうちに、念仏のお心が開かれてくると、『こうして念仏申されるのも、如来様の御計らいであった』と、頭が下がってくるのです。
 「今ここで一声の念仏が称えられるまで、いのちながらえているということは、ほんとうにありがたいことではないでしょうか」と。
                                   〔一〕
     樹心会(1967)『みんなで語りあおう 樹心会シリーズ3』東京:樹心会