法友のご尊父の通夜法要に参列した晩、いのちのことを少し考えてみる

 法友のお父さまが還浄されたとの知らせをいただき、高尾での授業を終え所属寺での通夜法要にうかがう。厳かな思いのうちに同朋奉讃式でお勤めさせていただいた。
 私(たち)はいっさい用いない表現ではあるが、いったいいつの頃から「ご冥福をお祈りいたします」という言い方をするようになったのだろう。冥福とは、冥土(冥途)・冥界での幸福のことだが、そのようなことばを使う以上は、亡くなった人が冥土(冥途)・冥界に迷い込んでいるという前提を担保していなければならない。亡くなった人が、冥土(冥途)・冥界、つまりは迷いの道に入り込んで苦しんでいるという立場に、どのようにしたら立てるのか教えてもらいたいと思う。おじいちゃん。おとうさん。じいじ。パパ。つい先ほどまで死なないでといってすがるようにしていたその人が息を引き取った瞬間に冥土(冥途)・冥界に送り込んでしまうような態度を、いったいどのようにしたら取れるのか、そういうことのできる人たちに聞けるものなら聞いてみたいものだと思う。
 特段の考えなしに「ご冥福をお祈りいたします」と言っている人々が、結局のところ、自分が礼を失した人間でないということを世間に示したいがためだけに、単に記号としてそのことばを使っているのならば、一刻も早くそうすることをやめた方がよいだろうと進言したい。衷心より哀悼の意を捧げます。謹んでお悔やみ申し上げます。あなたがきちんとしたことばづかいのできる人だということを示す表現は、ほかにいくらでもある。
 帰宅して、臓器提供を前提とした場合には本人に拒否の意思がない限り脳死を人の死とするという法案が衆議院を通過したとのニュースを見る。ドナーカードの「3番」に○を付けて持ち歩いている身としては、憂うべき事態におおいに困惑する。この際は審議不十分を理由に棄権した人々をこそ積極的に評価しておくべきか。今日のところは「息を引き取る」ということばの意味はきわめて重いのではないかということだけ、ひとこと言っておきたい。