いのちを私すること

 あるところから「私的に」とことわりながらニュース風のメールが送り続けられて来ている。送信先は100件ほどあるらしい。こういうところに引用するのはネット上のエチケットに反するのかも知れないが、ここ数日の内容についてはどうして書きおいておきたい。あなたのしていることはひどいことだととの指摘があれば、すぐに謝ったうえで削除するつもりである。
 まず、5月6日付のメールの中に、編集・発行人のことばとして以下の文言があった。

 ちなみに、小生は、「日本○○○学会」で墓地を購入し、そこに我が会員の遺灰を分骨してもらえれば、「新橋」の宴をあの世でも続けられるのではないか、と微妙に思ったりする者でもある。墓碑に「英和袖珍居士」、「らふかでおへるん居士」などと刻まれている墓地というのも酔狂である。

 ○○○の部分は、私の責任で伏せ字とした。このメールを読んでまったくよい気持ちはしなかったのだが、これまで感想などを送り返したことはなかったということもあり、今回も放置していた。すると昨日(5月9日)、以下の内容を含むメールが送られてきた。△△とおっしゃる方が、5月6日付のメールに反応して送られたもののようだ。

(3) 葬式の件
 医学史学会会員の外科医を学会特別会員に推薦し、全会員が献体か臓器提供をしたらいかがですか。つれあいが反対するなら、ご一緒に。散骨や散灰は賛成です。葬式は別に虚栄心が強くはない普通の遺族にとっては残酷な一種のお祭りです。
 「次に逝く友を決めてる友の通夜」(△△)

 「あの世」といういうものの存在の問題、墓地を「購入する」ということの問題、墓碑に刻まれた「戒名」の意味と意味づけの問題、「献体」や「臓器提供」の問題。どれを取っても、ひとつも頷くことのできない自分がここにいる。とりわけ、葬式を出すということ、葬式に参列するということ、葬儀を勤めるということ、葬儀を縁として亡くなった人を通じていのちの事実に向き合うということについて、このようなことばを読まされることは実に悲しく辛いことである。
 ただ、私はそうは言うけれども、編集・発行人のことばに感応してひとりの読者から投稿がなされたということは、このようなことばを使い、こういうポーズを取ってみせることに共感する人も大勢いるということなのだろうとも思う。けれど、これらの問題というものは、こう考えるのが当たり前だとか、こう思わねばならないというような、ただひとつの答えが用意されているような性質のものだろうか。このようなことばを使い、こういうポーズを取ってみせることがダイガクノセンセイとかケンキュウシャといった「知識人」の唯一のスタイルであるとするならば、そしてそれが認められてしまうような風土があるのだとしたら、私はどんなことがあってもその仲間には絶対に加わりたくないと思う。
 送り続けられて来ているメールに、ある分野の学問研究に関する情報を発信するという当初の趣旨からまったく外れたこのような内容がこの先も繰り返し載せられるのであれば、もはや我慢する必要はないと思う。自分の方からきっぱりと受け取りを拒否したい。