こみあげるもの

 6時起床。洗面、洗顔ののち、阿弥陀堂にて「おあさじ」、つまり晨朝勤行である。しばらく忘れていた「正信偈」草四句目下の猛スピード。このようなことを言うと誤解を招くが、後に続く「念仏和讃」の「陶(ゆり)」に包まれていると、トランス状態とでも呼ぶべきものを体感する。まあ、陶酔ということばもあるわけだが。いずれにせよ、家庭でのお勤めでもこのスタイルを守っている方がいらっしゃると聞くと、ただただ頭の下がる思いがする。
 朝食をいただき、清掃奉仕、解散式のあとは、やはり阿弥陀堂での「帰敬式」に。同じ奉仕団で上山された方のうち4人が仏弟子の名告りをあげられた。4つ並んだ背中を後ろから眺めていたら、自分が所属寺で「おかみそり」をいただいたときのことが思い出され、こみあげてくるものを感じた。式が始まり「真宗宗歌」を歌い始めたら、それは抑え切れないものとなり、ついには涙となってあふれてきてしまった。
 本山に上がることの意味をあらためて思う。昨年の8月に留萌の念仏者との出遇いをここに記したが*1、私はその中でこう書いている。

 北の海からの風に吹かれながら、その地を離れることなく生涯を終える人々がどれほどいたことかと思う。日夜お内仏に手を合わせながら、一度も本山に上がることなくお浄土に還る人々がどれほどいたことかと思う。

 このような名もない念仏者に支えられてきたのが私たちの本山である。今、こうして容易に上山できることのありがたさを噛みしめたいと思う。そして、私もその名もないひとりとして堂々と生きていきたいと思いを新たにしている。

*1:http://d.hatena.ne.jp/riverson/20080815、http://d.hatena.ne.jp/riverson/20080822