専門家不在の外国語教育

 長くなるが、敢えて全文を引用しよう。今日の『東京新聞』夕刊1面のコラム「放射線」である。書かれたのは某鉄道会社の社長とおっしゃる方だ。

英語難民


 何年か前、高校の同窓会があった。
 恩師も何人か出席されていたが、とりわけA先生はお元気そうだった。かつて厳しい英文法の先生だったが、定年退職した後は海外旅行を楽しんでいるとのことであった。
 そこで、私が「専門の英語を生かせるから良いですね」と話すと、「僕は英語は話せないんだ。ネーティブの発音を聞き取れないから会話にならないんだよ」と苦笑いされたのには驚いた。だが一方でなるほどと合点のいくところがあった。
 確かに私たちの多くも、英語は読めるし書ける。ボキャブラリーも豊富。しかし聞けない、従って話さない、会話ができないという、いわゆる「英語難民」の世代である。
 ところで、自分の孫が言葉を覚えるプロセスを見ていると、まず親の話すことを聞いていて理解をすることから始まる。話せなくてもよく分かっているのである。次に、親のマネをして片言を話すようになり、それが会話に発展する。
 ここまでは、自然に到達する。しかし、字を覚え読み書きすることは別で、教育なしには会得できない。識字率という言葉がそれを物語る。
 この流れとは逆に、私たちの世代の英語教育はまず読解や文法から入り、一方で生きた英語を耳から聞いて体得するプロセスは全くおろそかにされた。
 そのギャップを埋める努力は各人各様であるが、それぞれ並大抵ではない。
 その世代からの切なる願いは、外国語教育においてさらなる難民を生み出さないでほしいということである。


『東京新聞』2009年2月28日付夕刊、中日新聞東京本社発行E版

 絵に描いたようなと言うべきか、お手本通りと言うべきか。ここまで典型的な言説は貴重であるという点において、感動すら覚えた。
 お書きになった方は外国語教育の専門家ではないようだし、言語習得理論の研究者でもないようなので、その内容について批判的に検討を加えることは控えておく。しかし、外国語教育に携わる人の中にも時折同じような主張が見られるのは悲しいことだと思う。私の恩師は「素人にはモノを言わせるな」と吠える人だったが、外国語教育そのものが素人に支配されるとしたら実に情けないことだ。