浮遊することば

 映画『おくりびと』がアカデミー賞を受賞したとのことで、昨日から報道のラッシュである。
 そんな中、今朝のテレビに『納棺夫日記』の表紙が映され、青木新門さんがVTRで出演されているのを見て、なんだかホッとした思いがした。青木さんは、本木さんが映画化のために苦労されたことを思い、心から祝福したいとおっしゃっていた。
 今朝の『スポーツ報知』には「“原作者”が明かす『おくりびと』誕生秘話」の見出しで、『納棺夫日記』と『おくりびと』、そして青木新門さんと本木雅弘さんの関わりについて、かなり詳しいことが掲載されている。署名記事でもあり、記者氏が足と頭を使って書いたことが思われて好感が持てる。この新聞はめったに読まないが、テレビで紹介されているのを見て買い求めた。その価値はじゅうぶんにあったと思う。
 一方、テレビである。今回の一連の報道に問題があるとすれば、実際に『納棺夫日記』を読み『おくりびと』を見たうえで報じている者がどれほどいるのかということだろう。
 本木さんが『納棺夫日記』の「蛆も生命(いのち)なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた」という一節に心を動かされ、それを自分の写真集に引用させてもらったということを伝えるのはよいとしよう。しかし、それは『スポーツ報知』に書いてあったから知ったことではないのか。『納棺夫日記』を開きもせず、本木さんの心に思いを寄せることもないまま、ただ「情報」だけを垂れ流す。「原作は何かの日記らしいですね」とは、いったいどんな口があったら言えるのだろうか。
 映画『おくりびと』は『納棺夫日記』とは切り離されたものなのだから、『納棺夫日記』を読まなくてもよいかも知れない。しかし、『おくりびと』の話をするならば、せめてその作品を見てからにしてくれないか。テレビで「コメンテイター」などと称して喋るのが仕事ならば、話題の映画を見るといったことは必要な取材ではないのか。テレビに出るような人たちならば、試写会の切符くらい、いくらでも手に入ったのではないか。「慌ててDVDを買いに行ったら、まだ発売前だった」など、それこそシャレにもならない。

 当然の準備もできていない不誠実な人たちが、賞をもらったということだけをつかまえて「日本人として誇りに思う」などと喋っては金を稼ぐ。思いは傷つけられ、ことばは浪費され浮遊する。その中で、ただ一冊の本と一本の映画だけが輝いている。