事実は思いを超えている

 テレビでジルベスターコンサートのカウントダウン演奏を見ながら年越し。「ラプソディ・イン・ブルー」は嫌いではないが、個人的にはもう少し華やかな曲の方が好みではある。曲の終わりの若干のグダグダ感はご愛敬として、テレビがデジタル化されて時報を放送する意味が薄れてしまったのは残念な限りだ。
 1時には就寝し、6時前に起床。クルマを走らせてお寺に着いたのは、ちょうど日の出の時刻くらいだった。修正会は7時から。同朋奉讃式によるお勤めのあと、本堂にてお屠蘇でお祝いする。それに続く住職の法話では、静かに落涙するうちに、生きる決意を促された。
 境内墓地にある父の墓にお参りしたあと、庫裏の座敷にておせちとお雑煮をいただく。電話があり席を外された住職が戻って来られたところを伺えば、ご門徒が亡くなられ、ご葬儀を依頼されたとのこと。今日の法話では山門の掲示板にある「事実は思いを超えている」という伝道のことばが紹介されたが、そのことばをあらためてかみしめることとなった。
 今朝、シャワーを浴びながら聞いたラジオでは、僕と近い世代の男性アナウンサーが「厄年」のことを話題にしていた。---「厄年」を満年齢でとらえていたところ、知人に数え年で考えるべきだと指摘された。思い直してみたところ、数え年では「前厄」にあたっていた昨年中、体調に思わしくないことが2つあった。これから初詣に出かけ、しっかり「厄払い」をしてもらうつもりだ。---ざっとこんな話だった。年頭に聞く話としてはくだらなすぎると思ったが、このアナウンサーがこんなことを話題にするのは、共感する聴取者が多いということでもあるのだろうと思い直した。
 「厄払い」も「厄除け」もせずに「厄年」を過ごしたなどと言ったら、「だから、クルマに追突されたのだ」とか「肩が上がらなくなったのは、きっとそのせいだ」などと言う人もいるに違いない。お祓いをしてもらうことで思い通りの人生が送れるならば、よろこんでそのような道を歩もう。しかし、果たしてそれは本当のことか。
 私たちの思いを超えたところに事実があるということがわかったからには、天命に安んじて人事を尽くすことだ。夢を見ない。しかし絶望はしない。元旦とは、自分の生き方を問い直す朝である。