勉強のみよく奇跡を生む

 すっぽんを食べて死にかかっているうちに、高等学校の学習指導要領のあたらしい案が示されていた。このところ、インターネットの接続障害が続いていて、そのすべてをダウンロードできないのが残念なのだが、できるだけ近いうちに手に入れて読みたいと思う。国の政策に関わる意見を集めるのに英語らしきことばに頼らねばならないのも悲しいことだと思いつつ、「パブリックコメント」とやらにも関わっておきたいと思うし。
 かつて、「英語を英語で教えなければならないのは、それは英語だからだ」という人がいて、私は「じゃあ、数学は数学で、体育は体育で教えるのかよ」などと思ったのだが、周りの人たちはしきりに頷いて納得しているようなので戸惑った記憶がある。日本語で教えたって素晴らしい授業はあるし、英語で教えたってくだらない授業もある。もちろん、英語で教える素晴らしい授業も、日本語で教えるくだらない授業もあるのは当然のことだ。
 私は、英語で授業がしたくていくつもの学校を転々とし、その分野の研究会で多くの先達に学ばせてもいただいたが、中高の現場を離れるときには「英語は英語で教えなければならない」という考えは捨ててしまっていた。それは、英語の授業の素晴らしさや、英語の学びの確かさといったものは、教師が教えるために用いることばによって決められるものではないと気付いたからである。
 今日はここまで。またあらためて書くことにします。