わたしの思い出が濡れる

 なんだかんだと言いながら、歌が好きである。最近手に入れた音源は《合唱》と《労働歌》。なんとも、とんでもない話だ。
 昨日は「落葉松」の作曲家として知られる小林秀雄氏が葛飾区の金町で合唱団を指導していらっしゃると知り、合唱などまったくの未経験であることを忘れ、うっかり入会申込書を書いてしまいそうになった。

   落葉松       野上彰


    落葉松の 秋の雨に
    わたしの 手が濡れる


    落葉松の 夜の雨に
    わたしの 心が濡れる


    落葉松の 陽のある雨に
    わたしの 思い出が濡れる


    落葉松の 小鳥の雨に
    わたしの 乾いた眼が濡れる

 1967年に56歳の若さで亡くなられた野上彰氏は、30代の半ばにこの詩を作られたと聞く。この詩を味わううちに、詩とは根源的に「うたうもの」なのだと思い知らされる。小林秀雄氏の曲ももちろんすばらしいが、この詩自体が「うたうもの」としての存在を大いに示している。
 以前に勤めていた女子校の謝恩会で、音楽の先生がこの歌を歌ってくださったことを思い出す。この歌は、独唱曲として発表され、のちに女声合唱曲、混声合唱曲として編み直された。多くの人に愛唱される名曲である。
 僕の苦手なA川氏がコンサートでこの歌を歌っていると知り、聞いてみたいような、みたくないような。いや、聞きたくないな。無理だ。偉そうだが、歌好きのおじさんの戯言ということでお許しを。


 で、今日はジェロの歌う「君恋し」をテレビで初めて聞いた。うまい。うまいが、高音は抜かにゃ。ムード歌謡は《泣き》と《唸り》。引っ張り上げちゃだめだって。抜いて、泣く。そういうこと。
 ずいぶん偉そうではあるが、やはり歌好きのおじさんの戯言ということで、どうかどうかお許しのほどを。