どうして気持ち悪くないのか

 今日は早めに書いておこっと。《坂A》と《坂B》の話の続きである。
 二つの「坂」があることを知った僕は、まずはこの語について兄弟のアクセントを調べてみた。すると、十歳上の兄は《坂A》であることがわかったのだ。同じ家族に育ったのに「坂」のように基本的な語のアクセントが異なっていることは驚きだった。
 兄弟だからといって同じことばを使うとは限らないということは、五歳上の姉を見ているとわかる。姉は「違かった」という言い方を当たり前のようにするのである。5人の家族のうち、この言い方をするのは姉だけである。いったいどこで身につけて来たのやらと思うが、昨今、この言い方が東京近辺で広まり、芸能人のことばづかいや歌の文句などにも見聞きするようになっている事実に照らすと、案外、姉は時代の先端を行っていたのかも知れない。
 井上史雄先生の調査によれば「違かった」という言い方は、もともと東北地方南部でよく用いられていたものだそうである。大学時代の先輩に福島県出身のOさんという方がいた。中通りのご出身だったと記憶している。この方は、ごく自然に「違かった」とおっしゃるので、学問の成果を目の前で確かめられたような思いがしてうれしかった。ただし、この方の「違かった」は地名の「カルカッタ」と同じアクセントだった。
 日本語学は専門ではないが、「違う」ということばは《動詞》であるにもかかわらず《形容詞》のような意味を持っているのだと感じる。「違かった」の他に「違くて」とか「違ければ」といった言い方も広まりつつあるようだから、もはや事態は「違い」という形容詞を認めなければならないところまで来ているのかも知れない。絶対に嫌だけれど。
 で、「ちがうよ」と言うべきところを「ちげえよ」と言っても気持ち悪くならずにいられる「すごい」人々のことを思う。この人たちは「違い」という形容詞があるという前提で考えたならば、まことに正しい形容詞の活用を身につけていると言えるのである。終止形の欠落している形容詞か。絶対に嫌だけれど。