善人のしるし

 夜、たまたまダイヤルを合わせたラジオで、視聴者が考えて投稿してきた「新しいことわざ」を紹介していた。

 「まあいいか」は善人のしるし

 一読して、どのような意味と思うだろう。ラジオから聞こえてきた解説では、たしか「小さなことに目くじらを立てず、人を許す大きな心を持ちましょう」というような意味だと言っていた。
 「小さなことに目くじらを立てず、人を許す大きな心を持ちましょう」という趣旨にはまったく共感するのだが、小さなことに目くじらを立てないということを「まあいいか」ということばで括り、人を許すという広い心というものを「善人」ということばで象徴させることには大きな違和感を覚える。もっとも、真宗の教えになど触れてしまったがために、「善人」ということばの意味がいわゆる「世間」とは大きくズレて感じられるようになってしまっているのかも知れないのだが。
 ことばは通じない。私たちはそういう事実を生きているのだと思う。先日再会したK先生はカウンセリングを専門とされているが、人間のコミュニケーションに言語の占める割合は2割から3割程度だとおっしゃっていた。しかし、じっと目を見つめればすべてがわかるというわけでもなく、ハグをしたからといってすべてが伝わるというものでもなかろう。さまざまの手段を補完的に用いることによって、ギリギリのスレスレのところで成り立つのが私たちのコミュニケーションというものなのだろう。
 しかし、それにしたって、みんな「善人」になりたいのだろうか。「善人」と呼ばれるとうれしいのだろうか。そんなことを考えるということ自体がズレているということなのだろうか。