ふたたび、学校建造物のありようを考える

 K先輩と僕は上野高校の同じ校舎で学んだ。大黒天と校舎の間の裏門のような正門を入り奥へと進んで行くと、左手に大きな銀杏の木が2本。右手の玄関を入ると天井まで吹き抜けのホールになっており、見上げると天窓はステンドグラスだった。西のはずれは円形校舎になっていて、1階と2階を打ち抜いた物理教室は木の机と椅子が据え付けられた階段教室になっていた。
 昭和3年に竣工した校舎は、関東大震災後の帝都の復興のシンボルとして建てられたものだけあって、時代の最先端をいく立派なものだったのだ。33年の歳の開きのある2人の同窓生が途切れ途切れに語る校舎の記憶は、長い時を超えて完全に一致した。
 上野高校の校舎には校塔が存在しなかった。古い学校にありがちな時計塔のある校舎ではなかったのである。実は僕はそのことを密かに誇りに思っていた。建築の歴史について詳しくは知らないのだが、厳めしくあることを拒否し機能性を追究したモダンなラインが、僕らの母校にはよく似合うと思っていたのである。
 僕らの校舎には校塔はなかったが、大きな煙突があった。校舎の東側は、1・2階が屋内体操場、3・4階が講堂になっていて、その下には地下階があり、食堂とシャワー室が備えられていた。僕らの頃には水しか出ないシャワーだったが、昔はお湯が出たのだという。大きな煙突はそのお湯を沸かす釜に付いているものだったのだ。友人のひとりは幼い頃、やがて通うようになる校舎を見て「お風呂屋さんの学校」と呼んでいたのだと教えてくれたことがある。
 その校舎は僕が大学生のときに建て替えられた。僕はひょんなことから教育実習をするのが1年遅れてしまったのだが、そのおかげで、真新しい校舎で実習させてもらうことになった。悪い建物ではないと思ったが、消防署の監査で100年は大丈夫というお墨付きをもらっていた昭和の校舎をぶち壊し、30年持てばよいという新たなハコモノを建てようとしたバブル期の都の役人たちのことを考えると、それをばかばかしいと思う気持ちをぬぐい去ることはできなかった。
 通りに面した旧校舎のファサードを残して未来を志向する新校舎を建てることに成功した東洋英和のことを思うとき、校舎を建て替えることなく内装をリモデルすることで新しい教育環境を手にした板橋の淑徳を思うとき、校舎のことはあんな人たちに任せておいてはいけなかったのだとあらためて思う。校舎が同窓生の思い出のためにあるわけではないことは百も承知だが、学校が目に見えるかたちでの連続性を否定することを許すことはできない。