若き英学徒が守ったもの

 宮田は『教壇の英文法』の「まえがき」で「いよいよ英文法の研究に着手しようと思ったのが戦争末期の1944 年(昭和19 年)のころであった。Jespersen の Modern English Grammar を読んだり、教科書に使っていた Conan Doyle や Hardy から資料を集めたりしていた。しかし、やがて空襲にあい、Jespersen も資料を記したノートもすっかり焼いてしまった。」と書いているが、大切にしていた文法書やノートをどこで「焼いてしまった」のかと言うと、それは勤務していた旧制東京高等学校(東高)でだったのである。
 昭和20年3月の東京大空襲で下町を中心とした広い市域が焼けたことを受け、宮田に校地内にある寄宿舎の舎監として校内の一室に寝泊まりすることが命じられた。宮田は妻子を疎開させ、単身、その命に服したものと想像される。当然のことながら、万一の空襲の際には奉安殿から御真影と教育勅語を運び出すことがあわせて命じられていた。
 5月25日の深夜から26日にかけての空襲は「山の手大空襲」とも呼ばれる。東高は中野区の栄町通り(現在の南台)にあったが、その空襲で中野区のほぼ半分は消失したと言われている。
 空襲の中、宮田は見事にその命を果たす。若き英学徒は、御真影を守り Jespersen を焼いたのである。
 彼はあるところで回想しているが、部屋に書類が運び込まれたのは、空襲のほんの数日前のことであったという。その中には、出版を心待ちにしていた『日本語文法の輪郭:ローマ字による新体系打立ての試み』のゲラも含まれていた。