山宣ひとり孤塁を守る

 山宣ひとり孤塁を守る
 だが私は淋しくない
 背後には大衆が支持してゐるから

 1929年3月5日、治安維持法の改悪に反対し右翼の凶刃に倒れた労働農民党出身の代議士・山本宣治の墓碑銘である。親しみを込めて「山宣(やません)」と呼ばれた彼の墓は、故郷である京都府宇治市の小高い丘の上にある。
 山宣は、裕福な家庭に生まれた庭いじりを愛する病弱な少年であったが、園芸を学ぶために渡ったカナダで学問に触れ、生命科学を専攻する学者となった。そしてその立場から、貧しさの中にあって出産と労働の悪循環に陥っている日本の農村の女性を解放するため、性科学の普及と産児調節の運動に身を投ずるようになる。彼にとって、1927年、第1回普通選挙に京都2区から労働農民党の候補として立候補することは、学問的にも運動的に必然ととらえるべきものだったのだろう。その選挙における同党からの当選者は全国でわずかに2名であった。
 当選から2年、治安維持法の改悪に反対して衆議院で反対の討論に立つ予定だったが、与党の動議により強行採決されそのまま可決。議会における発言の機会すら奪われた彼は、その夜、宿泊先の旅館で右翼の男に刺殺され、生命さえも奪われたのである。39歳であった。非合法下の日本共産党は立候補の段階から一貫して彼を支援していたが、死後、その名を党籍に加えることを決めた。
 4人の子どもを持ち家族を大切にした彼は、京都の人々から愛される存在でもあった。彼の亡骸を迎え入れた市民は、官憲の妨害に屈せず整然と葬列を進めたという。権力の干渉は墓の建立に対しても加えられ、その碑文を塗りつぶし、表面から宣治の名も消すことが求められた。しかし、何度セメントで塗りつぶされても、彼を愛する人々の手でいつの間に削り取られていたのだという。
 どれもこれも、戦争前夜の話である。


 山本宣治は1889年5月28日の生まれである。生きることに迷ったとき、山宣と誕生日が同じだということだけが大きな支えになったことが何度もある。
 気づけば、もう彼の歳を超えてしまったわけで、西口克己の『山宣』をむさぼるように読んだことも、古本屋のカタログで見つけた『山本宣治全集』を大枚をはたいて買い求めたことも、なんだか遠い日の思い出のようになってしまっている。けれど、僕にとっての5月28日とは、山宣のように生きられるかを自らに問いかける日なのである。