取りやめる勇気

 デモと暴動は違うし、聖火リレーと聖火運搬も違う。聖火リレーが最初に行われたのは1936年のベルリン大会の時で、ナチス・ドイツの国策に沿ったアイディアであったようだ。あとからさまざまな意味付けはなされたのだろうが、元々はそういうことである。
 当たり前のように続けていても、その由来を聞いた途端に嫌になるものがある。以前に勤めていた学校の体育行事で披露される最上級生による行進がそうだった。出陣学徒壮行会に出向き、雨の中を歩く若者の姿に感動を覚えた教師が、戦後になって始めたものだと言う。
 「後期高齢者」となった母は、テレビに出陣学徒の姿が映ると見ていられない。そういう親に育てられた僕だからなのか、あの姿に感激して同じことを自分の生徒にもさせようと考えた教師のメンタリティについていくことができない。そして、無批判にそれを継続することで、起源も知らぬままに歩かされ、自己目的化した行進の出来栄えに感動して涙を流している生徒たちを見ていられなかったのである。
 僕も、あの日の学徒のひとりだったのかも知れない。海兵や主計に進む知恵も力もなかっただろうし、語学なんぞをかじり、スパイになるほどの言語操作能力も身につけることができぬまま、きっと雨の中を歩かされていたのだろう。悲しかったろうか、悔しかったろうか、それとも誇らしかったろうか。