名も知らぬあどけない少女よ

 地元の足立区に「はるかぜ」という名のコミュニティバスが走り始めて8年になる。昔は路線バスが走っていた自宅の近くの道も、環七が開通してからはすっかり寂れた通りになっていたのだが、そこにまたバスの通るようになるとは思ってもみなかった。
 営業開始の2000年4月1日、テレビがニュースで取り上げてくれるわけでもなく、新聞に折り込みチラシが入っているわけでもなく、ヘリコプターやセスナで広報が流されるわけでもなく、自宅にいちばん近いバス停で待ち始めてみたものの、本当に来るのか不安でならなかった。しばらくバス停でたたずんでいると、自転車に乗った小学生くらいの女の子が近付いてきて「何か来るんですか」と尋ねる。僕は不安を隠して「今日からバスが走るんだよ」と一言。「へえ、すごーい」と言って立ち去る女の子を見送りながら、なおも不安は募るばかりであった。
 数分ののち、ようやくバスの白い車体が見えてきたときは、声が出るほどうれしかった。真新しい車に乗り込んで座席に落ち着き窓の外を見ると、先ほどの女の子が通りの向こう側を自転車で戻ってくるところだった。バスの中に僕を見つけて、うれしそうに手を振っている。僕も右手を挙げて応えた。
 その頃、僕はある学校で高三の担任をしていた。新学期早々のある日の放課後、「はるかぜに乗って帰ろう」と言って席を立とうとしたら、同僚にキョトンとされた。妖精ではないし、さすがに風に乗っては帰れない。