納得と説得

 今日は自宅で採点。夕方近くになり、ようやく評定を終えて速達で送る。
 午前中、なかなか仕事が始められずテレビに目をやると、テレビ朝日の「スーパーモーニング」が、文京区で進行中の「ハコモノドミノ」を扱っていた。学校の統廃合やら施設の建て替えやらをドミノ倒し的に続けて行き、最終的には「震災復興公園」の中でただ一つ残る元町公園が無くなってしまうという区の計画が、住民無視の形で進められつつあるというのである。これに関連することがらは以前にTBSの「噂の!東京マガジン」でも取り上げていた。
 震災復興公園とは、関東大震災のあと復興事業の一環として当時の東京市が設置したもので、小学校と小公園を隣接させ、学童の遊び場を確保して教育の効果を高めると同時に、万一の際には防災の拠点となるようにデザインされたものだ。市内に52か所が設けられたと聞くが、現在は本郷一丁目の元町公園しか原形をとどめていないそうである。
 このアイディアは、当時の内務大臣で帝都復興院の総裁を務めた後藤新平によるものとも聞く。後藤はこの職の前後に東京市長を務めており、東京のまちづくりに手腕を発揮した人だった。彼の復興プランは多岐に渡るものだったが、一つの柱として「『帝都の復興』は教育と文化から」ということが掲げられた。学校の設置や公園の整備は市内の各地で急ピッチに進められたのである。上野公園が宮内省から払い下げられたのも、第三台場を史跡として公園化したのも、この時のことである。道路や橋だけでなく、学校や公園に力を入れたところに後藤という人の大きさや深さを感じる。
 テレビを見ていると、反対運動に関わる地元の方のお一人として、懐かしい方がVTR取材に応じておられる姿が映し出された。母校・東京都立上野高等学校の大先輩で、僕の在学中に教頭として赴任して来られた中園靖雄先生である。背筋をピンと伸ばして、やや高い声でお話しになる姿はその頃とまったく変わらない。
 実は、母校・上野高校は後藤の復興プランの一つとして第二東京市立中学校の名で創立されたものである。ちなみに第一東京市立中学校は靖国神社の隣に開設され、のちに九段高校となった。上野が2番になったのは彰義隊が負けてしまったからだと母校の関係者の間ではまことしやかに伝えられているのだが、それはさておき「復興中学校」に学び教頭も務められた中園先生が「復興公園」である元町公園を守る運動に関わっておられることに深い感慨を覚えた。
 中園先生のお顔をテレビで拝見しているうちに、友人のK君とのことを思い出した。高校時代のK君は水虫で困っていたが、水虫には下駄がいいと思ったようで、ある日カランコロンと音をさせて登校してきた。僕らの母校は学生運動の時代に制服の規程を廃止してしまっていたから、何を身につけて来ても構わなかったのである。K君と僕とで昭和3年に竣工した校舎の1階の廊下を歩いていると、石張りの床は実にいい音を立てた。教務室の前に差しかかると、中から中園先生が飛び出してきた。そして、例の高い声で「おぉ、これ以上校舎を傷めてくれるな」と一言。僕らはハッとして、K君は直ちに裸足になった。それきり、彼は下駄を履いて登校することはなかった。
 「納得と説得」などとわかったようなことを言って生徒指導にあたる人が多いが、納得も説得も、本物は共感に根ざすものでなければならない。中園先生もK君も、そして僕も、母校を大切にする思いは一つだったのである。
 長くなったが、最後にもう一言だけ。テレビには後藤新平について語る猪瀬直樹氏も映し出されたが、その手に持っていたのは付箋のたくさん貼られた雑誌『東京人』の2007年10月号(No.245)だった。その号の特集は「後藤新平:東京をデザインした男」。副知事、その雑誌で慌てて勉強したんじゃなかろうね。