地下鉄に乗って

 高尾の大学へ。今日は新年最初の出講日にして後期末試験の日。どうにか3クラスのテストを終える。
 毎日、たいていの場所へクルマで出かけるが、高尾へ行く火曜日だけは電車を使う。高尾と言えば遠足で行くところ。往復で6時間弱の長距離ドライブはさすがにつらい。
 電車だと本が読めるのもありがたい。往きの中央特快の中では、読みかけだった島田裕巳『日本の10大新宗教』幻冬舎, 2007を読了。帰りは京王線・都営地下鉄新宿線・東京メトロ千代田線と乗り継ぎ、気楽に雑誌『東京人』の最新号(NO.250, 2008年2月号)を。
 『東京人』の今月の特集は「地下鉄がつないだ東京風景」。懐かしい写真に彩られた多くのエッセイが並んでいる。いつもながらの美しい誌面構成だが、その中で、建築評論家で朝日新聞編集委員である松葉一清氏の「メトロと建築。」というエッセイが目に留まった。
 冒頭にはこうある。

 今から二十年以上前、マンハッタンの街頭で地下鉄の駅の場所を通行人に聞くとき、「メトロの駅は?」と尋ねて怪訝な顔をされた。パリでの癖で地下鉄のことを「メトロ」と呼んでしまったのだが、当時のニューヨークでは通じなかった。でも、一九九〇年代の終わりには、地下鉄の乗車券代わりのコインだったトークンが姿を消して、東京と同じようなプリペイドのカードが登場し、その名も「メトロカード」となった。かつての会話の齟齬は昔話と言うわけだ。

 松葉さん、よほど長くパリで暮らしていらっしゃったのだろう。ニューヨークで道を尋ねるときには英語をお使いだっただろうに、その部分だけフランス語で「メトロ」になってしまったようだ。
 その後の2段落はこのように続く。

 メトロはもちろんメトロポリタンの略。十九世紀末に地下鉄が開通したパリではそう呼んだ。ギマールのアール・ヌーボーの曲線が躍動する出入口の頭上に、植物曲線の字体で「Metropolitan」と表記された。メトロポリタンはメトロポリス=大都市に由来する。十九世紀ヨーロッパにおいて、都市人口の増加に応じるために、それまでの中心市街地を囲っていた城壁などを壊して市域が急拡大し、メトロポリスが生まれた。ロンドン、パリ、ウィーンがその代表である。
 地下鉄が、メトロ、メトロポリタンと呼ばれるのは、そのように市域拡大の近代大都市が生みの親であったことに起因する。世界初の地下鉄を開通させたロンドンは、栄えある最初の路線を「メトロポリタン線」と命名した。後塵を拝したパリは、それを受けて地下鉄そのものを「メトロポリタン」と呼ぶようになった。ニューヨークは百年後にそれにならい、東京はさらに遅れて二〇〇四年になって、「帝都高速度交通営団」が「東京地下鉄株式会社」となり、「東京メトロ」が愛称となった。ただ、ロンドンは、メトロポリタン線が健在なこともあり、地下鉄は「アンダーグラウンド」と呼ばれている。

 建築がご専門だけあって、鉄道を都市論・都市学の視点で論じておられるところはたいへん興味深い。ただ、パリの地下鉄のことについては記しておきたい。パリで最初に地下鉄を走らせた会社は、Compagnie du chemin de fer Metropolitain de Parisという名前だった。つまり、会社の名前が「メトロポリタン」だったのである。市域の拡大にともない都市内の交通や都市と郊外とを結ぶ交通の必要性が高まったという趣旨は松葉氏の文章からも読み取れるが、大切なのはそれを運営する会社が「メトロポリタン」を自ら名乗ったというところだ。その名乗りに応えて、パリの人々は地下鉄のことをメトロと呼ぶようになったのである。
 なお、アメリカのいくつかの都市にはrapid transitという概念や名称があるが、これは都市と郊外とを結ぶ高速度交通のことを指しており、この「メトロポリタン」なる会社が提供しようとした交通のスタイルに似ている。ちなみに、帝都高速度交通営団の英語名はTeito Rapid Transit Authorityであり、東京でもこのような形態の都市交通を考えていたことが名称から見て取れる。
 松葉氏は、東京での生活がよほど短いか、東京では地下鉄を利用されなかったのであろう。営団地下鉄がさまざまの場面で「メトロ」ということばを用いていたのをご存じないようだ。営団地下鉄の広報誌「メトロニュース」が発行されたのは1960年だったし、ニューヨークではなく東京の「メトロカード」が発売されたのは1988年のことであった。営団地下鉄に乗れば、車内に掲げられた路線図には「メトロネットワーク」と印刷されていた。東京メトロという愛称が生まれるずっとずっと前からだ。
 雑誌のエッセイと言えども、専門外のことと言えども、書くからには事実に基づいたことを書きたいものだ。あるいは、僕の「鉄分」が高いだけだろうか。