努力してほしい

 今日で冬休みも終わりという小学生も多いことだろう。通知表にハンコをもらって持って行かなきゃと、準備のよい子どもたちはランドセルの中身の点検を済ませたはずである。
 もう30年以上も前のことだが、僕の通っていた小学校では通知表を「あゆみ」と呼んでいた。呼んでいたというより、表紙にそう印刷されていたのだから、そう名乗っていたことになる。「あゆみ」の評価法は項目別になっていた。各教科に「九九の三の段を言うことができる」とか「腕立て開脚跳びで四段の跳び箱を跳ぶことができる」といった具体的な目標が5つか6つ示されていて、それぞれに「よくできる」・「できる」・「努力してほしい」という評価が与えられるのだ。
 5・4・3・2・1とかA・B・Cで評価することを問題視した先生たちが考えた方法なのだろうと容易に想像できるが、僕は「努力してほしい」という評価が大嫌いだった。だって、努力したもの。それなのにまだ努力しろと言われるなんて納得がいかなかった。2年生のときだったろうか。「鉄棒で逆上がりができる」という項目にだって、僕は相当に努力したつもりだった。でも、ついに一度も成功することはなかった。「できない」とか「劣る」とか言ってもらえたら、どれほど気が楽になっただろう。僕は、逆上がりについてはその時に「努力してほしい」と言われたまま、ずっと今も努力を求められているのである。
 この評価法については、言いたくて仕方のないものをずっと抱えている。まず、「東京の人間なら『努力してもらいたい』と言えよ」というところから始めたいが、取りあえずそのことは置いておいて、要点を2つに絞って記してみることにしよう。
 1つは「努力を求める前にどんな指導をしたのか」ということである。もっときつい言い方をすれば「他人ごとみたいに『努力してほしい』なんて言ってるけど、アンタ、ちゃんと教えたのかよ」ということだ。合理的で計画的な指導をしたのであれば、そうでなくとも学ぶ身になって親身の指導をしたのであれば、「努力してほしい」ではなく「できない」と堂々と言えるのではないか。このような評価法を是とするのは「できない」ことに対して「できない」と言う覚悟が足りないのである。もちろん、本当に努力しなかった者もいるだろう。しかし、努力していたことを承知のうえで「努力してほしい」と言うのは評価する側の怠慢である。
 もう1つは、そもそも「『できる』ということと『努力する』ということには直接の関連があるのか」ということである。「努力しなくても簡単にできる」ということもある。その一方で「いくら努力しても全然できない」ということもある。「よくできる」・「できる」・「努力してほしい」と3つのことばを並べて評価するとき、それは「できる」ことを求め、それを評価しているのか、それとも「努力する」ことを求め、それを評価しているのか。「努力しないができた」のと「できないが努力した」のとでは、どちらが尊いというのか。この評価法には、「努力すれば必ずできるようになる」という誤った考えが根を張っている。努力することは尊い。大きな意味のあることである。しかし、それが成功を前提とし、対価としての成功を絶対的に要求するものであるならば、成功につながらなかった努力は無駄でしかない。できることは尊い。できた方がよい。でも、できないかも知れない。できないことだってある。それでも努力する。努力することにも意味がある。この評価法からはそういう生き方は導き出せない。
 こういうことを言うと、すべてが自分の身に返ってくる。今でも評価の季節には大いに呻吟する自分である。だからこそ、自省を込めて30年来の思いをことばにしてみた。