学んだり、学ばなかったり

 中学生との勉強で、いわゆる「長文問題」を解く。長野オリンピックで最終聖火ランナーをつとめた「義足のランナー」Chris Moon(クリス・ムーン)さんのことが書かれていた。彼は、地雷撤去のNGO活動中に蝕雷し右手と右足を失ったが、マラソン・ランナーとして賞金を稼ぐことでその活動を支援し続けている。
 地雷は人の命を奪わない兵器である。以前に勤めていた学校にNGOの方を招いてお話を伺ったとき、そのことを知った。命を奪わないから「よい」のではない。命を奪わず身体に障害を残し、本人ばかりか周りで支える家族や集落の人々に苦しみを持続させることにこそ、この兵器の非人道性があるのだ。
 整理して話せば3分もかからない。眠そうにしていた生徒たちが顔を上げ、じっと聞いていた生徒たちはハッと息を呑んだ。受験に必要な知識を整理するのが目的の仕事ではあるけれど、そこに「大切なこと」があるのならば触れずにいられない。そうしなければ、「教える」という立場に立つことの意味が問われてしまう。
 夜は西落合で勉強。学校から渡され、1年をかけて解いてきた問題集の最後には「英作文」と題したページがあるのだが、ある年に某県の高校入試で出題されたという問題には、なかなか答えが出せずに悩んでしまった。「中学生は、きちんと勉強するために、自分の部屋を持つべきである」という意見に対し、反対か賛成かを明らかにしたうえで5つの英文を用いて自分の考えを述べよというのだ。
 いわゆる「ディベート」を意識した出題であることは理解できる。しかし、この「論題(命題・主題)」の立て方に間違いはないだろうか。論題の中に賛成側の観点が盛り込まれてしまっており、議論の幅が極端に狭くなってしまうのだ。例えば、「中学生は、自立心を養うために、自分の部屋を持つべきだ」という意見を述べたいと思ったときには、果たして「賛成」なのか「反対」なのか。この問題においては、命題を「中学生は、自分の部屋を持つべきである」としておかなければならなかった。県が用意したはずの「解答例」を見てみたいものだ。