がんちゃん

 自分のお金であちこちに出歩くようになって初めて岡山を訪れたのは、この地を故郷とする大学時代の友人の結婚披露宴に招かれた時だった。市内で生まれた彼は実に英語が堪能で、県立高等学校の教員として活躍していた。彼はそればかりでなく音楽にも秀でており、県の高等学校音楽連盟の指導にもあたっていた。結婚のお相手は音楽の先生だったか、いずれにしても音楽という縁で結ばれた二人だった。
 私が次に岡山に向かったのは、その半年後のことだった。そして、それはその友人の葬儀に参列するためだった。幸せな毎日を送っているとばかり思っていた彼が、まさかそんなに大きな病に苦しんでいたとは。悲しみとも驚きともつかぬ思いのまま新幹線に乗った。夏の暑い日だった。ご宗旨で神様になるという彼にお榊を手向けた、そのことだけを覚えている。
 翌年、音楽を愛した彼を追悼するコンサートが有縁の人々によって岡山市内で開催された。そのときが、私にとって3度目の岡山である。以来、西に用があれば決まって彼のお父さん・お母さんを訪ねた。だから、岡山を何度訪れたのかはもう覚えていない。ただ、そのような繰り返しの中で、彼を失ったご家族が新しい歩みを始めている姿に触れ、私自身もある種の区切りをつけなければならないと感じたのだった。
 彼が亡くなったときの勤務地は津山だった。この地でも彼は音楽の畑にいくつもの種をまき、それは今も成長を続けている。しばらく岡山の地に縁遠くなっていたが、今度の例会が津山で開催されると知ったとき、何をおいても出かけたいと思った。自分にとっての最後のけじめとでも呼ぶべきものをつける必要を感じたのだった。
 広大な街路。入り組んだ路地。張り巡らされた水路。なんということのない街角がふと思い出される。パン屋の前に、楽器店の前に、バス停の前に、今もあの日やその日の彼がたたずんでいるような気がする。こうして今、津山は私にとって特別なまちになった。
 その津山では「桐襲(きりがさね)」を、乗り換えの岡山では「大手まんぢゅう」を求めて帰宅。疲れたと言っては甘いものを口にするような日常が、新しい光の中に私を待っている。彼によってすでに知らされていた「いのち」の事実に立とう。そうして、生きていこう。