サッちゃんとなっちゃん

 童謡「サッちゃん」の作詞家として知られる作家の阪田寛夫は、宝塚歌劇の大ファンであった。1983年に『わが小林一三:清く正しく美しく』を上梓した阪田は、14年後の9月、大劇場で開催された「タカラヅカ・フォーエバー」というチャリティーショーで基調講演の機会を得る。これは阪田にとって最初で最後の宝塚の舞台となったわけだが、そのときの講演は人柄のにじみ出たまことに几帳面なもので、几帳面な講演だから「キチョー講演」なのかしら、あるいはひどく緊張していらっしゃるから「キンチョー講演」ならぬ「キチョー講演」なのかしらと思うほどであった。私は映像を通じて聞いただけだが、正直言って聞いているこちらが苦しくなってしまった。
 阪田には2人の娘がいたが、次女は大浦みずきの名でトップスターも務めたタカラジェンヌであった。芸名は阪田と親交の深かった庄野潤三が命名したものだという。芸名のほかに登録される愛称は「なつめ」だったが、これは本名そのままで、これも庄野の作品から登場人物の名をもらったものであった。大浦は1974年に60期生として入団、雪組から星組を経て花組に移り「ダンスの花組」と称された華やかな時代の中心を担った。1991年に退団後も舞台女優として活躍していたが、一昨年の秋、闘病の末に亡くなった。
 私はこのことを知っていたはずなのだが、すっかり忘れていたようだ。今日、阪田のことを調べるうちにひょんなことから思い出し、今さらのように驚いている。さらに驚いたのは、今日が大浦の誕生日であったことだ。健在であれば55歳のお祝いをしている日であった。
 本当のことを言うと、私は大浦の時代の宝塚はよく知らない。私にとっての「第一次黄金期」は、彼女を慕っていた世代が活躍した頃であった。具体的には、真矢みき(67期)の少し後、真琴つばさ(71期)紫吹淳(72期)香寿たつき(72期)姿月あさと(73期)匠ひびき(73期)などがトップを務めた時代がそれに当たる。
 大浦は人の悪口を言ったことがないと評判で、下級生はその人柄を慕ったという。入団したばかりの頃に鳳蘭に言われてそれを守ったのだとも聞くが、阪田を父に生まれ、その家族の中で育ったことが彼女の人柄を形づくったことは疑いようもない。その父である阪田も、大浦の亡くなる4年前の春に帰らぬ人となった。おかしなことが書きたくて苦しみもがいた人生を終えたのである。