ともなるいのち

 所属寺を会場に組(そ)の同朋総会。長く宗門の行政に関わってこられた先生の講話をいただいた。なんとも深い内容で、それゆえにさまざまの受け止めがあり、それらを後でうかがうこともまた意味深いものと思った。
 私のもっとも印象に残ったのは、仏の存在を理論的に解明する必要はなく、その意味において仏教は神学に対するところの「人間学」であるという部分だった。その他、キーワードとしては「ジャータカ」と「共命鳥(ぐみょうちょう、ぐみょうのとり)」がこころに残った。
 教団も社会的存在である以上、組織を維持するためのルールを備えていなければならない。大谷派には立法機関としての「宗会」があり、それは「宗議会」と「参議会」の2つで構成されている。前者は僧侶の議会であり、後者は僧籍を持たぬという意味の門徒のそれである。そして、この理念は地方自治よろしく教区や組といった地域ごとの組織にもあてはめられ、ひとりひとりの関わる一寺にまで及んでいるのである。
 このように教団の意志決定に信徒が関わることをきちんとルール化しているのは世界中を探しても大谷派の他にないと聞いた。人々を酔わせ迷わせ大切なことをごまかし続ける宗教団体のある中で、信じた人こそを目覚めさせようという姿勢をルールとして維持しているという点において、この組織を支持したい。
 教えを握らない。教えを私(わたくし)しない。僧侶もまた門徒であるという命をかけた表明があればこそ、ここに伝えられることばが息づき力を持つのであろう。懇親会で酔った私は「やるじゃん大谷派、すごいぞ大谷派」と言ったが、本当にそう思うのである。