読めてしまう

 英語を読むということはどういうことなのか、あらためてそのことを悩む。例えば、あるプロ野球選手を題材とした文章を読むとき、その選手のファンだったり野球に興味があったりすれば、少々英語にわからないところがあっても、さらりと「読めてしまう」わけだ。
 私が外語を受けたとき、入試の最初の問題はプロ野球のキャンプについて日米を比較して論じた文章だった。私は「知識で」読んだ。目の前にある問題文は、私の知識に誤りのないことを確認するため参照したに過ぎなかった。私は幸運だった。今になって思えば、野球と「キャンプ」がどのように関わるのだろうと疑問をいだいた受験者もいたことであろう。
 もちろん、ことは野球だけの問題ではない。知識や経験で読めてしまう文章は、テストで出題するにふさわしい文章、授業で読むに値する文章とは言えないのである。わたしたちは、よくよくそのことを頭に入れておかなければならない。