自分のことば

 モンゴル語を勉強していた頃だから、かれこれ25年ほど前のことになる。最近のことは不勉強にして知らないのだが、当時のモンゴル語には「大学院」を意味することばがなく、ロシア語を借りて表していると教わった。初等・中等教育はともかくとして、高等教育を外国語の助けを借りずに展開できるということは、日本語にとって、そしてそれを使って暮らす私たちにとって、まことに幸福なことだと思ったものだ。
 今日、日本国内の某社が2010年度第2四半期の決算を英語を使って発表した。その会社は、英語を社内の「公用語」にすると発表してはいたが、記者発表の場に社長が出てきて英語で話してみせるなどというのは、こけおどしに過ぎぬとの批判を受けても仕方のないところではないだろうか。
 記者発表の場では、英語を使わぬ記者たちは同時通訳をイヤホンで聞いていた。こんな愚かなことを放置するというのは、いったいどういうことか。だいたい、記者発表の場は《社内》と《社外》との接点なのだから、ここに《社内》のルールを一方的に持ち込むなどというのは、それこそルール違反だ。これに臨んだ記者たちは、この社長に対し、その驕りを指摘した上で日本語で説明するように堂々と要求するべきだったと思う。
 ついでながら、この社長の英語が上手いなどと言っている人も多いように聞くが、誰それの日本語が上手いなどと言うことはおよそないのではないか。そういうポーッとしたことは言わない方がよい。ごく希に本当に素晴らしい日本語を使う人がいて、それに対して感嘆の声をあげてしまうこともあるにはあるけれど、そのレベルで言うならばこの社長の英語はそれほどたいしたものではない。その意味でも、あまりポーッとしたことは言わない方がよい。
 私企業のことだから、社内で英語を使うことをとがめるつもりはない。好きなだけ使い、それが「グローバル化」だなどと言っていればよい。ただ、そうは思うのだけれど、日本語を使って経済活動が展開できることの幸福がわからないというのはなんとも気の毒なことだとも思ってしまう。とりあえず、私はこの会社のネット通販ではいっさいの買い物をしないことにした。先日、シアトル系の某コーヒーショップで飲まないことを決めたのに続き、私の小さな「不買運動」である。