感激とともに

 今日は今日で、感激の一日となった。
 早朝、遅れ遅れになっていた新年度のシラバスをようやく作成。これまでは胸につかえていたものがあったのであろう。それは不安や心配のようなものだったかも知れない。どうしてもできなかったことが、今ならばできる。10時にはメールに添付して送信。
 午後、所属寺で「成人の日法話会」。引き続いて新年会。ご講師として京都からお迎えした先生が、新年会の最後におっしゃってくださったことばが忘れられない。「ここの門徒さんは寺の冷蔵庫を勝手に開けるでしょう。それが同朋というものです。」
 門徒が寺の冷蔵庫を勝手に開けるということに象徴的に表されたもの。それは開かれた寺の姿であり、門徒の一人ひとりが自分のものと思って大切にする寺の姿であろう。この僧伽の一人となったご縁をありがたく思う。
 帰宅すると郵便が届いていた。以前ここにも書いたことのある「蓮如上人御一代記聞書」の「意訳」を、敬愛するD師がお送りくださったのである。これは本当に貴重な資料であって、手に入れられるためにたいへんなご苦労をおかけしたものと申し訳なくありがたく思う。追ってお礼状を認めるとして、まずはこの感激を感謝とともにここに記しておきたい。
 私のこころをとらえて離さずにいた一節を、4分冊の3冊目に見つけた。

13 「南無阿弥陀仏」と口に出して称えよう
 念仏とは、「南無阿弥陀仏」と口に称えることだ。
 私たちは、ためらったり、はずかしがったりして、なかなか、念仏が口から出にくい。だが、とらわれず、おおらかに、「南無阿弥陀仏」と口に称えよう。
 念仏する根拠は、「ただわが名を称えよ、助けん」という阿弥陀仏の仰せを実行するところにある。
 私がとっくに忘れてしまっているような遠い昔から、実際に身体でやったこと、ひとに言ったこと、また、心にちらっと感じたことすら、消えてなくならずに、身の底にしみつき、いま現に自分の心を生み出す種子となって、私のうちに宿っている。その宿業にしばられ動かされているのが、わが身の事実だ。
 このわが身の宿業の事実を忘れ、永遠に宿業から出離する手がかりも見込みもない私を、仏にならしめようと誓いを立てられ、成就されたのが、南無阿弥陀仏という大行である。
 「南無阿弥陀仏と称えよ」というこの仏の大悲が、わが身に聞き開かれた上では、尊く思って申す念仏も、また、ふと口に出る念仏も、そのまま、おのずから仏恩報謝になっているのだ。
                                 〔一八〇〕
     樹心会(1967)『みんなで語りあおう 樹心会シリーズ3』東京:樹心会