こころの墓標

 所属寺の近くに「郷土と天文」という奇妙な取り合わせの博物館がある。そこには展示物として昭和30年代の町工場が実物大で造ってあって、油と埃のまじったような臭いまでもが再現されている。この臭いに郷愁を感じる人というのはずいぶん限られていると思うのだが、僕はその一人だ。
 生まれ育った家は商店街にあった。裏道に入ると小さな町工場が並んでいて、プレスしたり型を抜いたりする機械が不規則な音を立て、辺りにはその博物館と同じ臭いが漂っていた。僕は今もその町の住人だが、たくさんあった町工場も廃業したりアパートに建て替えたりで、ずいぶん少なくなってしまった。それでも、ガチャコン、バタコンという音は今でも耳にする。
 仕事始めというけれど、この辺りの工場には縁が遠いようだ。昼前、ずいぶん遅くなってしまった年賀状を出そうと最寄りのポストまで歩いたが、町中がひっそりと息を殺したようにしていた。工場の音も聞こえないし、フォークリフトも軽トラもみんな動かずにいる。
 年賀状を投函したあと、少し足を伸ばしてみる気になった。酒屋の角を曲がると都営住宅が5棟ばかり並んでいる一帯である。小学校の頃、ここには同級生が何人も住んでいた。いちばん大きな建物は当時としては画期的な高層住宅で、だれもが「14階建て」と呼んでいた。
 K美がその屋上から飛び降りて死んだのは、僕が大学に通っていた頃だった。K美は小学校の頃の友だちで、男も女も関係のない仲良し8人組のひとりだった。学区域が分かれていたために違う中学校に通うことになり、その後は何回か年賀状を交換しただろうか。高校生になってから駅で見かけた彼女はK商業の黒い襟のセーラー服を着ていて、それが妙に眩しかったことを覚えている。
 今の僕だったら、何をおいてもお通夜かご葬儀に駆けつけただろう。けれど、どんな理由があったのかそうすることをせず、お線香の一本もあげさせてもらうことのないまま20年以上が過ぎてしまった。そんなことを思いながら「14階建て」を眺めていたら、なんだかそれが巨大な墓標のように見えてきて、足を止めた僕はそこで両手を合わせたのだった。
 K美の家は工務店を営んでいた。何年か前に引っ越してしまったと風の噂に聞いたが、どうだったろう。さらに足を伸ばして、その辺りを訪ねてみることにした。噂は本当だった。工務店のシャッターのあったところには見覚えのないアパートが建っていて、K美の名字を記した表札を見つけることはできなかった。
 こうしてK美は僕の記憶の中だけにいる人になってしまった。いや、そう言えたのであれば、それはそれで美しい「物語」になったのかも知れない。けれど、実のところ、僕は記憶の中からもK美を消してしまっていたのだった。
 この正月のこと。餅を焼いていたら不思議なくらい真ん丸に膨らんだ。それを見て、小学校の頃に僕に付けられた「お餅」というあだ名を思い出した。あだ名の理由は、すぐに「膨れる」から。誰が付けたのだったろうと思い出した名前は、T美にJ子にA美。そのときの僕には、8人組にいた4人の女子のうち、どういうわけかその3人の名前しか思い浮かべることができなかったのだった。
 でも、僕を最初に「お餅」と呼んだのはK美だったのではなかったか。K美の家が見つけられなかった帰り道、急にそんなことが思われてきた。T美、J子、A美と名を挙げて、どうしてK美を思い出せなかったのだろう。ごめん。もう忘れないよ。勝気なK美が「おもちぃ!」と言って口を尖らせているような、そんな気がしてならなかった。