わたしひとり

 夕刻、谷塚の斎場で営まれた伯母の通夜法要に参列。94歳で還浄した伯母は「下山事件」の下山氏の運転手を務めていたO氏の妻である。O氏は何年も前にお浄土に還られているが、幼い頃には何度も会う機会があった。そのときには事件のことなど何も知らなかったのだが、振り返ってみて、O氏は事件とまったく関わりがなかったのだろうと思う。穏やかと言うか物静かと言うか、悪く言えば「ぬぼーっ」とした人だった。伯母はそれとは対照的で、ひどく勝ち気な女性だった。母はこの小姑にずいぶん苦しめられたのである。
 1時間の通夜法要の最中、お焼香に見えたのはわずかに2人。まさに密葬のおもむきで、親戚ばかりの法要が勤められた。親戚と言っても、実のきょうだいは80歳を過ぎた妹が1人だけ。94年生きているうちに、友だちはみんないなくなってしまった。長命を願う人は多いが、長命ゆえの寂しさというものもあると感じた。
 若いお坊さんが一所懸命に勤めてくださった。伯母の嫁いだ先はうちの宗旨とは異なるので、何もかもが興味深く感じられた。往生のとらえた方やお念仏の意味づけに疑問を感じながらも、お他宗の法要で15分にわたってその意味を説いていただいたことは自分にとっては画期的なことだった。
 茶碗に盛られたご飯に箸が突き立ててあるのを久しぶりに祭壇に見る。会葬礼状には「おきよめ」の塩。これらを普通のことや当然のことと感じる人もいるのだろうが、絶望的な違和感のうちに自分の歩いてきたわずかばかりの道のりを思ったことだった。