誰もいない教室で授業の練習もしました

 昼を挟んで急ぎの仕事だけ片付け、夕刻から所属寺へ。法話をうかがいながら、話すというのは実に難しいものだと今さらのように思う。そう思いながら、英語の授業を英語で運営しようと一所懸命だった頃、オーラル・イントロダクションはもちろん、すべての発話すべき内容を原稿化していたことを懐かしく思い出していた。
 教壇に立てば誰にでも授業はできるのかも知れない。しかし、それが本当に授業と呼べるものなのかは、よく吟味しなければならないところだ。授業とは何かを抽象的に語ることはできるが、理念だけでは授業にならない。適切なスキルは当然求められる。しかしまた、スキルだけでは授業にならないことも事実なわけで、ここがやっかいだが面白いところでもある。
 授業と法話は違う。けれど、ことばの力を信じるという点において、どこか通じるものがあるようにも思う。