This is a watch too. と言うためだけに懐中時計を身につけていた私

 研究大会へ。公開授業は実に見事なものだった。これに対して何を言おうというわけではないのだが、気になることがいくつかあった。今日はそのうちのひとつ。
 授業の中で、ものを示して生徒に英語で言わせるというのは、私自身もおこなってきたが、ごくごく当たり前のことである。今日の授業でも、中学1年生に a pen/pens、a pencil/pencils、a cap/caps、a hat/hats などを示して声に出して言わせていた。提示のタイミングも素晴らしければ、生徒たちの反応も実によかった。
 私が気になったのはその次である。先生がネコの描かれた紙片を示すと、生徒は一斉に a cat と言った。しかし、ここで私は考えてしまったのだ。どうしてこれは a card や a picture や (a sheet of) paper ではないのだろう。次はゾウの写真である。やはり生徒たちは a picture とは言わずに an elephant と言うのだった。
 なるほど、ここからは絵や写真を示すことにしたのだと思って待っていると、次に提示されたのは大きなトランプだった。生徒たちは、そこに描かれている a king ではなく、今度は a card と声を揃えて言うのだ。そして、その次は腕時計の実物であった。ここでは当然 a watch の声が返って来た。
 突っ込みどころが違うと言われるかも知れない。教室にネコやゾウを持ち込めないことは、私にだってよくわかる。しかし、「教室に持ち込めないものが描かれている場合には、その描かれているものを言う」というのは英語の習得に際して求められる力量なのだろうか。この方法で進めていった場合、a picture や a photo はどのように扱われるのだろうか。
 今日の授業で、実物なら実物、絵なら絵という区別がついていたならと思う。「今度は絵だよ」ということばや、せめて実物から絵に移って実物に戻らないという流れがあったならと思うのである。生徒たちは実に頭がよい。教師の求めるものをよく察して反応することができる。しかし、もしかすると、ひょっとして、教室の隅で私のような悩みを口にできずにいる生徒がいないとも限らない。
 教員になったばかりの頃、私は、授業中に生徒たちに向かって This is a watch too. と言うためだけに懐中時計を身につけていた。小道具にもずいぶん凝って授業をしてきたつもりだ。モノの力の大きさを思ったからである。
 今日の授業を批判するつもりはない。生徒に目配りのできた、実に見事な授業であったと思う。しかし同時に、一般論として、教師の思い込みやオトナの都合を授業に持ち込むことを可能な限り少なくしたいとも思う。「思い込みからの脱却」という恩師のことばを、またまた思い出した私である。