話す者の役割

 午後「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」の協議会のため所属寺へ。法話であれ、講演であれ、授業であれ、話す者が自分を語るということは大切なことだと思う。
 英文法の話ならば、自分がどのようなきっかけでそのことに興味を持ったか、どのようにしてそのことを身に付けたかを語る。聞く者は、そこに文法の面白さを見出し、学び取るきっかけをつかむものである。仏法を語るならば、自分がどんな人と出遇い、どんな縁をいただいてここまで歩んできたかを話す。聞く者は、そこに自分の来し方を重ね、直接には遇ったことのない人との新たな出遇いを感じるものである。
 それは、身辺のとりとめのない話をするのとはわけが違う。自分という存在を、他者の新たな出会いへの仲立ちとする営みなのである。自分を語ることは辛く苦しく、またある意味においては照れくさく恥ずかしいものである。しかし、話すということを役割として与えられた以上、どうにかしてそれを乗り越えなければならない。
 高校時代、数学が苦手だった私が矢野健太郎の参考書だけは読み通せたのは、そこに矢野という人の人となりが見出せたからである。田島伸悟の『英語名人河村重治郎』を読んで私が英語教育史の道に踏み出そうとしたのは、河村の生き方もさることながら、それを書き記した田島という人の人生に自分を重ねたからである。
 人は人を通じて学ぶ。人を通じてしか学べない。それは必ずしも仏法に限ったことではないのである。