少女は待っていた

 地下鉄の丸ノ内線は幼い日の憧れだった。乗り物の絵本で見た赤い車体。両脇の白い帯には銀色の曲線が描かれていた。小学校に上がる前のことだと思うが、両親に連れられて初めてこの電車に乗ったときのことを今でもよく覚えている。何を口走ったかまでは記憶にないが、興奮する僕の手を引きながら、父も母も顔から火が出るような思いだったのではないだろうか。
 丸ノ内線は地下鉄ではあるが、何度も地上に姿を見せる。池袋を出て数分。初めてトンネルを出たところが茗荷谷駅である。中学生になって、あちこちに出歩くようになった頃、赤い電車がこの駅のプラットホームに滑り込む瞬間こそが東京の最も美しい風景だと思うようになった。数年ののち、大学で知り合った友だちがまったく同じことを言うのを聞き、共通の感性で結ばれる友を得たと思えてうれしかった。
 この駅の近くに居を構えられ、聞こえてくる電車の音を聞きながら「茗荷谷海岸」という詩を書かれたのは福田陸太郎先生である。福田先生が亡くなられたとき、畏友のブログにこんなコメントを残したことを思い出した*1

 中学1年のときだったと思います。父の書斎で見つけた『朗読の詩集』(1967、宝文館出版)という本に福田陸太郎先生の「茗荷谷海岸」という詩がおさめられていました。茗荷谷というところに妙な思い入れのある僕は、その詩をノートに書き写しては何度も読んだものです。
 福田先生が高名な英文学者であるということを知ったのは、もう少し後のことです。先生が高師・文理科大のご出身で、お住まいが茗荷谷にあるということを知るまでには、もう少し時間がかかりました。
 教員になって数年後、茗荷谷の茗渓会館で開かれた語研の70周年の祝賀会の席で、初めて福田先生とことばを交わさせていただく幸運を得ました。「茗荷谷海岸」のことを言うと、新しく出版されるアンソロジーにもおさめたということを教えてくださいました。先生もあの詩をお好みなのだと思い、うれしくなったことを昨日のことのように思い出します。
 先生の「お別れの会」は、3月16日の13時から。会場は、その茗渓会館だそうです。末席を汚させていただこうと思っています。
(2006年2月27日)

 10月2日。僕はきまって茗荷谷の風景を思い出す。電車の色も駅の建物も、何もかもすっかり変わってしまったが、変わらぬ美しいものが、いつまでもずっとそこにはある。

*1:正しくは、この詩のことを調べようとネット検索をかけたところ、自分のコメントにヒットしてしまったというべきでしょうか。tmrowing氏のブログより「無断引用」しました。ごめんなさい。