りばそんアーカイブズ #2

 昨日は伊藤裕道先生のご命日だった。先生がお浄土に還られてまる3年が経ったのである。今日は『日本英語教育史学会月報』第194号より、先生を思って書いた文章を再録する。なお、この文章は『日本英語教育史研究』第21号にも転載されている。

事務局員としての伊藤裕道先生を、事務局員として追憶する


 伊藤先生がお浄土に還られたとのお知らせを奥さまからいただいたのは、7月28日の朝のことだった。6月の例会でうかがった「中間発表」の記憶も鮮やかだった私は、突然の知らせにことばを失うしかなかった。先生からは「例会の資料を送ってくれ」といったメールや電話を病院からも直接いただいており、ご病状は快方に向かっているものと勝手に思い込んでいたのだった。
 その朝から十数時間、先生のご葬儀に関わって学会の事務局員としていくらかのことをさせていただいたのだが、まだまだ駆け出しの身としてはわからないことの連続であった。まず、先生の亡くなられたことをどちらにお知らせしたものかということに始まり、ご葬儀の通知の文面はこれでよいか、お花は1基でよいか2基にして対にした方がよいか、更にはお香典はおいくらお包みしたものかといったことまで、何かしようとするとすぐに不安になってしまうのだった。
 これまで、事務局の仕事で不安なことがあれば、いつも伊藤先生に電話で相談に乗っていただいていた。今度もそうさせていただけたらと何回も思った。今思えばおかしなことだが、携帯電話を手に取り、画面に先生の電話番号を映してみたことも一度や二度ではなかった。


 研究者として、教師として、家庭人として、伊藤先生にはさまざまな横顔や後ろ姿を見せていただいたが、私にとってもっとも身近な先生の姿は、事務局員としてのそれであった。先生の事務局員としてのお仕事ぶりは超人的であった。その絶妙のタイミングと言い、各方面への心配りと言い、芯のブレない頑固さと言い、とてもとても私などの真似のできないものであった。
 私が月報づくりを担当させていただいていた頃、会計や月例会の企画といったたくさんの仕事を抱えながら、紙面構成を指示し、仕事の遅い私を励まし、最後の点検までしてくださったのは伊藤先生だった。月末になると、茗荷谷や八王子やお茶の水など、いろいろな場所で待ち合わせて、月報を折っては封筒に詰める作業をした。先生のお宅にうかがったこともあったし、あるときなどは大晦日にまで二人でせっせとその作業をした。
 月報を離れ会計の担当を引き継がせていただいてからも、折々に連絡をくださり励ましてくださった。今年の大会のとき、受付の開始に間に合うようにと会費納入者のリストをメールで送ってくださったのはご病床からではなかっただろうか。


 あんなに近くで仕事を教えていただいたというのに、あんなにいろいろな話を聞かせていただいたというのに、もっともっとたくさんの時間をご一緒したかったと思う。伊藤先生から事務局の仕事を引き継いだと口にするとき、私の中に少しのためらいが残る。私はいったい、先生から何を引き継ぐことができたというのだろう。そんなことを思ってしまうのである。
 伊藤先生に電話をかけて相談に乗っていただくことは、もう永遠にできなくなった。伊藤先生がメールをくださることも、もう二度とない。この悲しいが当然の事実を乗り越え、ぬかりなく仕事ができるようになりたい。一刻も早くそうなることで、先生のご恩に報いたい。それが事務局員としての私の今の願いである。