勝ち抜くためのツール、か

 世の中のしくみ、特に金の流れについてはまったく疎いのだが、金儲けをしようという人々にとっては、中国というところは相当に魅力のあるところなのだろう。そうでなければ、農薬を混入させてしまうような工場と契約して食料品を作らせようなどとは考えないはずだ。
 もう5年も経つだろうか。それは外国語教育に関する会議だった。僕はその会議を構成する団体のメンバーの一人として参加しており、その人も別の団体からその会議に来ていた。某大学の教員とのことだった。会議の途中、globalization を批判する文脈で McDonaldization ということばを使った人に対し、「マクドナルド、いいじゃないですか。うちの子どもも大好きですよ」とその人が言うのを聞き、ずいぶんあきれたのだが、要するに外国語学習の目的論を globalization という潮流の中に位置づけられる人なのだと理解した。
 翌年の同じ会議のこと。その人は「これからはアジアの言語ですよ」と繰り返した。「アジアの言語とは」と尋ねられると「中国語とか」と即答し、しばらく間をおいて「×ハングル語とか*1」と答えた。なんという狭いアジア観*2。議論する気も失せたのだが、こういう人たちが「中国語を学ぶべきだ」と声高に言うとき、目に見えているものは中国という地域の市場としての魅力だけなのだということはよく理解できた。
 かつての勤務校では、経営をつかさどる人々がある時「国際的な競争社会を勝ち抜くためのツールとしての英語を生徒たちに身に付けさせることは本校の使命である」と言い出した。その後の日本の動きを見れば、外国語教育や外国語学習の目的をそのような文脈で語る人々が大きな力を持っているようだから、おそらく先見の明のある経営者だったのだろう。そして、ここは自分のいる場所ではないと思って専任の職を辞した僕は、少数派もしくは異端なのだろう。
 けれど、金にも得にもならない「ことば」におもしろさを見出して学び続けるという生き方を誰が否定できると言うのか。「ことば」に限らず、学ぶということの意味はそんなに卑しいものではないと僕は信じている。

*1:この用語のどこが問題なのかは、日を改めてまた書きたい。

*2:例のハンドボールの騒動で、「アジア」の広さを再認識した人も多いはず。