赤・青・黄・新赤

 もう月末だ。3コマを終えたあと、千住の街をあちらへこちらへ。銀行やら郵便局やらコンビニやらであれこれの用を済ませる。この際だから、もう少しこの街にいることにして、久しぶりに串煮込みの「藤や」へ行ってみよう。だが、開店にはまだ少しある。どうやって時間をつぶすか考えるうちに、駅前のビルに大きな書店が入っていることを思い出した。
 田中克彦の『ことばと国家』(岩波新書黄版175)は2度ばかり買った記憶があるのだが、いずれも行方不明になっていてなかなか探し出せずにいた。教材として使いたいというのに困った話である。全国区の知名度のあるあの書店なら岩波の本も置いてあるはずだし、3冊目にはなってしまうが、この際買ってしまおうと思ったのだ。
 書店の入っている階に上がり、「岩波新書」の表示がある書棚に直行。ぶら下がっている目録を手に取り、色と番号を確かめる。さて、書棚で探し始めて困ってしまった。きちんと色分けがなされていないのである。では、色にかかわりなく番号順になっているのかと言うと、すべてがそうというわけでもなく、一部は色ごとにまとめられ、一部は色にかかわりなく通し番号で並べられている。つまりは、全体が「まだら」になっていて、すべての本の背中をいちいち見ていかなければ目当ての一冊が探し出せないのである。一部が版の色でまとめられているところを見ると、元々は赤版・青版・黄版・新赤版と整理されていたものが、新刊が出るたびに平積みされていたものを棚に差し込む際、少しずつ乱れてきたもののように思われる。
 これがあの有名書店の書棚なのだろうか。店員さんは、誰も岩波新書が赤・青・黄・新赤と色分けされていることを知らないのだろうか。あるいは不慣れな店員さんがいたとしても、その人に学んでもらえるような店員間のやり取りというものは存在しないのだろうか。
 書棚のなんとなく黄版がまとまっている辺りを見ても見つけられず、番号を目で追っても探し出すことができない。もうあきらめようかと思ったとき、そこに存在する合理性というものを一切説明できないような場所に目指す一冊はあった。結局はすべての本の背中を見てしまったということだ。
 レジで金を払う際にひとこと言うべきだろうかとずいぶん考えたが、結局黙ってその場を後にした。あの書棚は、一日や二日であのようにでたらめになったわけではあるまい。あのような書棚が放置されているのは、ここが岩波新書を探す客など来ない店か、これまでに客に指摘されていても改めることができなかった店で、しかもそれで済んでしまっている店だからなのであろう。およそ私が言おうとすることは、この店には迷惑な話であるに違いない。うっかり店員さんに言い出してしまったら、岩波新書の歴史に遡って長々と話さねばならぬことにもなりかねない。私は先を急いだ。今日は串煮込みなのだ。
 美影凜さんのことは明日。